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いろはの幽霊喜談 学園編
   ラテン・マジック
  
  
『三番搭乗口、バーミンガム発、エアバスA―三四〇便、到着いたしました……』
   空港のロビーに出ると、その男は目をしかめ、サングラスをかけた。そのロビーは天井がガラス張りになって採光がよく、男の蒼い虹彩には眩しかったのだ。
   青く抜けるような空に、男は感嘆にも似た息をもらす。
「ニッポン……。良い空だ」
   そうつぶやいた男の容貌は、日本人のそれとはだいぶ異なっていた。かきあげる髪は輝くブロンド。鼻筋は通っていて、彫りが深く、その眼窩にはブルーの瞳が光をたたえている。
   男は閑散としているロビーを見渡す。人は少ない。無機質な感じのするロビーに見切りをつけるように、男はもう一度空を見上げた。
「君はいつも、この空を見ているのかい? 『東洋の魔女』……」
   その男の微笑みに、気づく者はいない……。
「お兄ちゃん、ぼーっと突っ立ってたらあかんよ」
「自分の荷物ぐらい自分で確認しいや」
「あ、どーも、スミマセン」
   乗り合わせた老人会の面々に背中押されて、その男はツアー会社のバスに乗り込んだ。
  
   ◇◆◇◆◇
  
「その者……の、名を唱える際に必要な……、いくつかの事柄……」
   市立御霊高校西棟は、三階にある社会科準備室。
   ほんの昨日まで誰からも忘れ去られていたその部屋に、突然ある少女が足を踏み入れた。
   少女はさまざまな道具を持ち込んで、その部屋を自分の根城へと変貌させた。どれも年代を感じさせるものばかりで、テーブルの上にはご丁寧に水晶玉まで据えてあり、まるで占い師の館のようになっている。
   そして今、家具にうずもれるように、その少女はせっせと洋書を訳していた。
「北方に彼の者の入り口となる扉を用意し……、なにこの単語?」
   御霊高校の制服に身を包んだその少女は、辞書を取るべく立ち上がる。色白で細い手足。身長は小さく、一見すると中学生と間違われかねないが、れっきとした高校二年生である。赤味を帯びたセミロングの頭髪を左手でかきあげ、ぽりぽりと頭をかいた。
   瞳は分厚いレンズに遮られている。いつもの気の強そうな瞳は見ることができない。
   その少女が書棚からラテン語の辞書を取り出し、革の表紙をめくった時、部屋の扉が開いた。
「部室がもらえたって聞いたからどこかと思えば……、もともと倉庫だったところじゃないか、って……」
   ジャージ姿で部屋に入ってきたのは、御霊高校二年、快活そうだが頼りなげな瞳以外、これといって身体的特徴の乏しい少年。名前を新堂悟という。
   悟は入ったとたん、目の前の人物に目を引かれた。
「わ――っ! あんただれ?」
   その問いに、少女はこめかみに青筋を立て、手にしていた消しゴムを投げつけた。消しゴムはものの見事に悟の額にヒットし、悟はもんどりうつ。
「何もよりによって、今日来なくたっていいでしょうに」
   そういって少女がおもむろに眼鏡を外すと、そこに見慣れた小生意気そうな顔が現れた。
「い、いろは? お前、眼鏡だったの?」
「誰が眼鏡よ。コンタクトを落としちゃったから、今日だけなの」
   恥ずかしそうに眼鏡をかけ直したのは『東洋の魔女』『笑う呪術者』などと後ろ指さされるIQ183の天才少女、紫雨いろは。
   悟は天然記念物でも見るような眼差しで、眼鏡いろはの顔を覗き込む。
   いろはが何かいいたげな瞳で悟を睨んだが、悟は机上の辞書を取り上げ、ぱらぱらとページをさばいた。
「ラテン語……。今は死語じゃないか」
「古典の訳だからしょうがないでしょう。早く返しなさいよ」
   いろはは悟から辞書を取り返すと、翻訳の続きにかかった。
「これの理解が進めば、失敗に終わったこの間の召喚を、完全なものにできるんだから」
「どうせ希代の魔術師とか、そういう人の霊でも呼び出すんだろ?」
   それを聞いていろはの顔がこわばった。
「ど、どうして分かったの……?」
   悟は苦笑しながら、書棚から適当な本を取り出して、ページをめくる。
「さあな、辞書になら書いてあるんじゃないか?」
「からかわないで」
   いろはは口を尖らせてペンを走らせる。
   そんないろはを見て、にやにやしながら悟はその本をしまう。その一部始終の光景を、ドアの隙間からこっそり覗いている人物がいた。
   ――魔術? 召喚? 何を言っているのかしら……。
   干渉してはいけないような空気を感じ取りつつも、彼女――若手教師、佐伯操子は恐る恐る社会科準備室の扉を開けた。
「あのー、二人とも、さっきから何をしゃべってるの?」
   その声でいろはと悟が突然同時に振り向き、操子は一瞬肩をすくめた。
「先生……、原文の訳を読んで、その内容について話してたんです」
「そう? ……でも何の本?」
「心理学ですよ」
   にべもなく話を打ち切り、いろはは黙々と作業を再開する。悟は我関せずと、部屋の隅に身を寄せた。
   操子はこわごわ部屋の中に入ると、その内装に目を奪われた。
「これ、全部紫雨さんが?」
「ええ」
   生返事。悟がヒヤヒヤしながら二人の展開を見守っていると、いろはが口を開いた。
「……で、先生。何かお話があったんじゃないですか?」
   そう、いろはが珍しく部活動などに出たのは、操子からの呼び出しがあったからなのだ。
「そ、それなんだけど……」
   操子は手近な椅子に腰掛け、いろはと同じ目線になる。
「紫雨さん、あなた、この学校に何か不満があるんじゃない?」
「へっ?」
   いろはの手から、ラテン語辞書が滑り落ちる。
「変な噂のせいで気分を悪くしてるんだったたら、私でよければ相談に乗るし、それ以外のことでも、何でもいいから話してくれれば……」
   操子はどもりながらも、その目はしっかりといろはを見ている。
「学校に来ないって言うのは、結局は逃げてることになるんじゃない? もし不満や悩みがあるんだったら、ちゃんと相談して欲しいの」
   いろはは無言で落とした辞書を拾い、棚に戻す。そして操子に背を向けたまま、一言だけつぶやいた。
「……余計なお世話よ」
   そのまま操子の方を見ること無く、いろはは部屋を出ていった。
   あまりにあっけない返事に、操子は放心していたが、ふと意識を取り戻した。
「こりゃホネね……」
   操子は苦笑しながら、まだ散らかっている部屋を片づけにかかったが、悟がいつの間にかいなくなっていたことには、気がついていなかった。
  
   ◇◆◇◆◇
  
「いきなり何を言い出すかと思えば……。所詮、保護者気取りの三流教師のすることね」
   いろはは明らかに不機嫌そうに廊下を進んでいく。大股でつかつかと床を鳴らしていると、悟が後ろから駆け足で追いついてきた。
「あの先生、本気だったみたいだぜ、それなのに……」
   いろはは何の脈絡も無くハリセンを取り出すと、それを水平に払った。「へぶっ」という声が後ろに遠ざかるのを耳の隅で聞きながら、玄関までやってきた、その時。
「相変わらず激しいツッコミだね、『東洋の魔女』……」
   聞きなれない声がいろはの耳に割り込んできた。いろははハリセンを構え直すと、腰を落としてあたりをうかがった。
「いやだなぁ、忘れたの?」
   声と共に、柱の影からひとりの男が姿をあらわした。
   美形。その男を一言で称するならそれに尽きる。ゲルマン系の彫りの深い美青年で、碧眼はサファイアのような澄んだ青。スーツを纏った姿は映画俳優をも凌ぐほど、といっても過言ではない。
「僕だよ、あの日君と同席した、シャルル=アンドレア」
   流暢な日本語で話す男がウインクしてみせると、いろははやっとその男の異名を記憶の淵から引きずり出した。
「まさか、『黄金の曙』の創設一一〇周年ミサにいた、『フィジカルのシャルル』?」
   それを聞いて、シャルルはにっこりと満面の笑みを浮かべた。子供のような無邪気な笑い。世の女性の大半はその笑みに我を忘れるだろう。
「会えて嬉しいよ」
「あんたのせいね。今朝からへんに胸騒ぎがするのは」
   いろはは不機嫌そうに腕を組んで、碧眼の美男子を睨み付ける。
「……あの話なら、もう終わったはずよ」
「君は本当の僕を知らなかった……」
   シャルルは金髪をかきあげる。すると、その瞳がとたんに鋭くなった。
「あの時の僕は未熟だったけど……。今の僕をあの時と一緒だと思うと、火傷するよ!」
   そう言ってシャルルが右手を掲げると、周囲の空気が振動し始めた。はじめ耳鳴りのような音がいろはの頭の中に響き、次第に鼓膜がひしゃげるような強烈な気圧差が起こる。
   いろはがそれを振り払おうとかぶりを振った瞬間。
「炎よ!」
   シャルルの声が過密した空気を震わせると、、それを合図に空気に火がついた。瞬く間にあたりは光に包まれ、連鎖する発火がいろはの体に打ち付ける。
   爆音は衝撃となって、いろはを弾き飛ばした。
   熱波はすぐ収まり、いつもの静けさを取り戻した玄関に、シャルルの含み笑いだけがこだまする。
「どうだい? これが僕の愛の炎……、火竜さ。 これで、認めてくれるね?」
   得意げに腰に手をあてて、あごをしゃくるシャルル。
   しかし、廊下の突き当たりまで飛ばされたいろはを見て、突然その顔を引きつらせた。
「……随分と、あじなマネしてくれるじゃない?」
   あの爆風で吹き飛ばされたにも関わらず、いろはは平然と立ち上がり、スカートの埃を払った。眼鏡こそなくしたものの、真っ直ぐシャルルに歩み寄りつつ、胸元からネックレスを取り出す。そしてそれを目の高さでふらふらと振ってみせた。
「おあいにくさま。これは、あたしの身体に降りかかる物理的魔法干渉を相殺するタリスマンよ」
   スカラベがかたどられたネックレスをかけ直して、いろははシャルルの目の前までやってきた。
   そして自分より一回りも大きいシャルルを見上げ、挑発するように目を細める。
「あんたの専攻がフィジカルである限り、このあたしを負かすことはできない」
   シャルルは驚きの表情の中で、かろうじて笑ってみせた。白い歯をみせながら、いからせていた肩の力を抜く。
「さすが東洋の魔女。一筋縄では行かないか……。やはり僕の妻にふさわしい……」
   『つ、妻ぁ?』
   割って入ってきた声は、先ほどハリセンでぶちのめされ、さらに爆風にもみくちゃにされた悟と、爆音に驚いて三階から下りてきた操子のものだった。
   操子は見たことの無い外人と、「妻」の一言に矛先をむける。
「……どういう事なの? 紫雨さん」
   いろはがあからさまに焦った顔を見せるので、操子はいよいよ何かあると勘ぐった。
「つまり、こいつは、ただの知り合いで、先生が思っているようなことは決して無いわけで、誤解というか、早とちりはしないで……」
   しどろもどろになるいろはを横目で見て、シャルルが笑みを浮かべた。
「ハニーがいつもお世話になってます、佐伯センセ」
   今度はいろはがシャルルの方を向いて驚く。
(何であんたが先生の名前知ってんのよ!)
(秘密♪)
「いえ、ご丁寧にこちらこそ……。 紫雨さん、そういう事だったら私に相談して……」
「もういい加減にして! シャルル、この話は後! 悟、行くわよ!」
   操子の背後で放心状態になっていた悟を一喝して、いろははくるりときびすを返した。
   とっさのことで対応が遅れた操子は、それを引き止めることができなかった。嘆息してさっきの外人に話を聞こうとあたりを見回したが、その姿も忽然と消えていた。
  
   ◇◆◇◆◇
  
   いろはは学校の近くに停めてあったバイクにまたがると、ヘルメットもつけずにエンジンをふかした。――先月免許を取ってすぐ購入したNYAMAHAの五〇ccスクーター。最近はこれがいろはの足になっている。
「あの様子じゃ自宅はすでに知られてるわね……」
   風を切りながら、国道沿いに南下する。駅前にやってきたいろはは、繁華街の裏路地にひっそりと佇むアンティークショップ、「猫の髭」の扉を叩いた。
「おじさん、ちょっとかくまって」
   いつものようにカウンターに座って、煙草をふかしていた「猫の髭」の主人――角川拓巳は、驚いたように目をしばたいただけで、すぐにうなずいた。
「珍しいですね、そんなに慌てて。……なにかありましたね?」
   あごのあたりをさすりながらにやにやする角川。
「おじさんに嘘はつけないわね……」
   肩をすくめて、いろはは部屋の隅にある箱に腰をおろした。
「今、悪漢に追われてるの。一年前、あたしがイギリスに行った時に知り合ったんだけど、今じゃただのストーカー」
   ストーカーという言葉に角川が苦笑する。
「ずいぶんと人気なんですね、東洋の魔女は」
「とんでもない、迷惑極まりないわよ」
   本気で嫌そうな顔をするいろは。すると入り口が音を立てて開き、学校から自転車で追いかけてきた悟が、息絶え絶えで入ってきた。
「……あいつ、一体、なんなだよ……? それに、妻って、どういうことだ?」
「妻?」
   意外な単語を耳にして、角川がくわえていた煙草を落とした。それを見て、いろはが慌てて取り繕う。
「ご、誤解しないでよ! あいつが勝手に言っているだけで、私はそんなのこれっぽっちも認めてないんだから!」
   腑に落ちないといった表情の悟。
「きっぱり断ればいいだろ」
「断って済むなら苦労しないわよ! こんなとこまで追いかけてくるなんて、正気の沙汰じゃないわ」
   いろはは身震いして自分の肩を抱えた。いろはの弁解を聞いても、悟の憤りはおさまらない。
「じゃあ、なんで出会い頭にあんなことするんだよ、あいつは!」
   悟の目を見ないいろはに、追い討ちをかけるようにまくしたてる。
「たまたまかすり傷一つなくすんだから良かったものの、下手したらとんでもないことになってたかも知れないんだぞ!」
   そのとんでもない事になった本人が言うのだから、悟の言い分は正しい。いろははそう思いながらも、言葉が出なかった。
   いつになくいろはが神妙なのを見て、悟ははっと口を閉じた。
「……とにかく、説明しろよ」
   しかし、いろはは何も言おうとしなかった。
   数秒の沈黙の後、場を取り繕おうと角川が口を開いた。
「私からも言いますから、もう一度会ってみたらどうです? 詳しい事は、本人から聞くのが一番でしょうし」
   角川の提案に、いろははしぶしぶうなずく。悟はまだ何か言いたげな顔をしていた。
「できれば会いたくないけど……」
「じゃなきゃ埒があかないだろ」
「そのとーりだよ」
   突然会話に割り込んできた声に、一同が驚いて振り返った。その先、店の入り口の扉にもたれていたのは、たしかに今話題になっていたシャルル本人だった。
「そろそろ認めてもいいんじゃないか? 僕の姓を名乗ることを」
「なぜここが……」
「愛のなせるわざ……かな?」
   自分の言葉に酔うように、シャルルは目を細める。
「うわー、歯が浮くー」
   呆れたような悟を見て、シャルルが興味深そうにあごに手を当てた。
「君がサトルかい? 残念だが、あきらめなさい」
   見下すような視線――実際、身長差で見下す形になるのだが。悟がそれを睨み返す。
「……何をだよ」
   シャルルは悟に対して四十五度の角度に立ち、前髪をかきあげた。
「君は僕の恋敵には役不足だ」
「なんだって?」
   驚きより、苛立ちを含めた声で聞き返す。
「背は小さいし、足は短いし、経済力も無し、おまけに顔も悪いと来た」
   悟を眺めながら指折り数えるシャルル。悟はいよいよこめかみに青筋を立てた。
「てめぇ、何を基準に……」
   詰め寄る悟の胸ぐらをつかみ、シャルルは空いた手の親指で自らを指した。
「もちろん、僕だよ」
   勝ち誇った笑み。それを真正面から受けた悟は、舌打ちするとシャルルの手を振り払った。そして改めて、相対する相手の容貌を確認する。
   イタリア製のスーツ上下。腕に光るのはロレックス。フェラガモの革靴。そして何よりもそれを身に付けている本人。
   悟は返す言葉を無くした。
「……お前がいろはを口説こうが、嫁にしようが、俺の知ったことじゃない。勝手にしろ!」
   そう言い残して、悟は店のドアを叩きつけて出ていった。
「ちょ、悟……!」
   追いかけようとするいろはの前に、シャルルが立ちはだかった。
「そこをどきなさい! でないと……」
   いろはに睨まれても、シャルルは不敵な表情を崩さない。
「でないと?」
「こうするまでよ」
   いろはの手に握られた黒いプラスチックの塊が、シャルルの肌に触れた瞬間、シャルルの身体が跳ねた。
「ぴぎゃん!」
   三十万ボルトの電撃に貫かれ、シャルルは意識を失った。
「一体、何がどうなってるんです?」
   状況を把握できていない角川に、いろはは「その男、縛って燃えないゴミに捨てておいて」と口添えして、外へ続く扉を開けた。
   外気に頬打たれてあたりを見渡すが、夕方の混雑の中、しかも視力の弱い裸眼で人ひとりを探すのは不可能だ。
   ――悟……。
   妙な焦燥感を抱きながら、いろはは雑踏の中へ身を投じた。
  
   ◇◆◇◆◇
  
   ――1年前。
「我等が摂り入れしものよ、真の知識を求める我等を護り給え」
   ロンドンはバッキンガム宮殿を望む、とある高級ホテルで開催されていた「黄金の曙」創設一一〇周年を記念するミサ。その最終日の会食はこの祈りをもって自由解散となり、いろはは会場でいそいそと帰り支度をしていた。
   すると背後から、いかにも調子のよさげな声が聞こえてきた。
「そこの美しい女性……。あなたですよ、そうその赤髪の……」
   いろははやっと自分が呼ばれていると気づき、振り返って目をしばたいた。そこにはまるで映画から出てきたような、絶世の美男子が立っていたのだ。
「はじめまして、東洋の魔女。 僕はシャルル=アンドレア。人は『フィジカルのシャルル』などと呼ぶけど……」
   フランス語で流暢に話すシャルルに対し、いろはももたついたフランス語で返す。
「フィジカル……、物理魔術のことね」
「ああ。……君のことはいろいろと聞いているよ」
「あたしも知らない間に有名になったものね」
   するとシャルルは満足げに微笑んで、ルームキーを取り出す。いろはは再び目を見開いた。イギリスでも最高級のこのホテルのものである。
「日本の話を聞かせてもらえないかな。中国に起源をおく極東の文化をもっと知りたくて……」
   それを聞いて、いろははしばらく考えるように肩を揺らしていたが、上目遣いでシャルルを見ると、人差し指を立てた。
「ねえ、どうせならあたしの部屋に来ない?」
   いろはの意外な申し出に。シャルルは飛びあがって無邪気に喜んだ。
「ホント? いやぁ、君から誘ってくれるなんて、光栄だなぁ」
   そしてかれこれ車で一時間。
   うかれるシャルルを連れていろはがやってきたのは、ロンドン郊外のさびれた一軒家だった。人が住んでいる気配はない。
「……ここ、なの?」
   怪訝そうな面持ちでたずねるシャルルに対し、いろはは小さくつぶやく。
「人がいると恥ずかしいし……、静かな方が良いでしょ?」
「え、ああ、もちろん!」
   いろはの大荷物を両脇に抱えたシャルルは、軽い足取りでいろはの後について、その扉をくぐった。
   しかし、
「ムードのかけらも無い……」
   部屋は狭く、壁はすすけ、カーテンは黄ばみ、シーツはしわだらけ。
   さすがのシャルルも顔をしかめてぼやく。しかしいろはは構わずそのベッドに腰をおろす。
「夜のお供、飲む?」
「女性に酒をつがせるのは、僕の美学に反するのでね」
   気取った様子でシャルルはボトルを取り上げ、褐色の液体を自分のグラスに注いだ。それを一口あおって、いろはの隣へ腰をおろした。
「近くで見ると、ますます奇麗だね……」
「あら、奇麗って、日本では誉め言葉にはならないのよ」
   シャルルの言葉をかわし、いろはは髪をかきあげる。消えかかった香水の残り香が、かすかにシャルルの鼻にとどく。
「……日本では、君のような女性を口説く男はいないのかい?」
「ええ、そうね。いないわね」
   あえてシャルルの目を見ずに答える。
「君の素晴らしさを知らないからさ……」
「あなたはあたしの何を知ってて?」
   いろはの瞳が突然こちらを向いたので、シャルルは一瞬息を止めた。
「え、それは、その……。君が日本でかなり実力派の」
「魔術師だと言うなら、間違いよ。あたしの専攻はアルケミーだし、どちらかと言えば現実主義者なの」
「……でも、事実君は黄金の曙の団員だし。日本じゃ名の知れた……」
「問題児扱いされているだけよ。誰もあたしを認めてくれる人なんていやしない」
   場の空気が凍る。シャルルは二の句が継げず、再びグラスをあおる。
「そんなに気にするなよ。酒でも飲めば気が晴れるさ」
「それって、現実逃避って言わない?」
   言いながらも、いろはは自分のグラスにブランデーをつぐ。
「でもいいわ。魔女の未来に……」
「君の未来に……、乾杯」
   澄んだ音を立ててグラスが鳴る。
   ブランデーを流し込むと、その豊潤な香りとほてりが、全身に染み渡るような感覚にとらわれる。
   深遠な夜の闇に、ぼんやりと浮かぶ二人の影が重なりかけた時、それは起こった。
「……んらよ」
「へっ?」
   突然いろはの口から漏れた言葉に、シャルルはいつのまにかいろはの腰に回していた手を放した。
「ふざけんらよ、悟! あんたねぇ、どーしてあらしが実験したい時に限っていなくらるのよ!」
   顔を真っ赤にして握りこぶしを振りまわすいろは。目は完全にすわっている。
「ちょ、ちょっと……」
   ――なんて酒グセのわるい……。それにサトルって……?
   ろれつの回らないまま、いろははいもしない悟に向かって罵声を吐き続ける。
「この間らって、電気ショック時の脳波の測定を頼んだらけなのに、いきなり逃げ出すし、エストロゲンを大量に投与しらら一週間後に、胸が膨らんできてどうしてくれるんら、って怒るし……」
「そ、そりゃあ怒ると思うけど……」
「あたし何も悪いことしてないじゃない! それらのにあんなに怒る事ないじゃない!」
   言いながらシャルルのスーツをぐいぐいとつかむ。
「いや、かなり人権を無視してると思うんだけど……」
   呆れ返ったシャルルの返事に、いろはのこめかみがぴくりと動いた。
「なんれすって?」
「え、だから、それは彼の人権を……」
「悟は特別らの!」
   いろはの怒号と同時に、持っていたグラスが割れる。握り潰したのではなく、まるで中から破裂したかの様に。
――霊力共振(シンパシー)……!
   霊力(とシャルルが呼ぶもの)の波動が、物体の固有振動と共振し、力学的な干渉を引き起こすことである。
――生身の人間でこんなに激しい波動を生み出すなんて……。
   生身の人間は霊力を体の中にしまい込み、その圧力で肉体としての人間を保っている。風船の口を開くようにタガを外してしまえば、霊力は凄まじい波動となって放出されるが、死は免れなくなる。今のいろははそれに近い威力で霊力を放出しているのだ。
――アルコールで精神のくさびが外れたか!
「しっかりしろ、気を確かにもつんだ!」
   シャルルの声も、いろはの耳まで届かずに霧散する。
「悟は、きっと、あたしのこと嫌いなのよ……、だって、だっ、て」
   声が声にならなくなっていく。頬が紅潮しているのはアルコールのせいだけではない。
   その間にもいろはの霊力は上昇し、部屋全体に干渉しはじめている。
「いっつもあたしのこと、邪魔もの扱いして……何よ!」
   今度はボトルが砕け、弾ける。シャルルはとっさにガラスの破片からいろはをかばうが、いろははまだ興奮していて、いつ何をしでかすか分からない。
「落ち着いて、心配しないで……」
   どんな言葉をかけて良いか分からず、シャルルはただその肩を抱く。いろはの引きつったような息遣いを聞きながら、シャルルは胸の内に怒りにも似た感情が、ふつふつと湧きあがるのを感じた。
――彼女をここまで苦しめるなんて……。サトルってのは、どういう男なんだ!
「悟……、私のこと、見てよ……」
   しかし、いろはがうなされるように発した言葉が耳に入った時、シャルルのその怒りが急激に冷めていった。
――なんて健気で、不憫なんだろう……。
   肩を抱く力が強くなりそうになるのを抑え、逆にシャルルは静かにその手を放した。
「分かった。とにかく、今はお休み……」
   いろはの額に手をかざし、睡魔を引き起こさせる。震えるいろはの肩が次第に落ち着いていくのを感じながら、シャルルは安堵の息を漏らした。
――今はこうするのが彼女にとって一番いいはずだ……。
   すっかり力の抜けたいろはの身体をベッドに横たえ、シャルルはジャケットを羽織った。そして部屋を出ようと背を向けた瞬間、喉の奥が詰まるような感じがシャルルを襲った。
――何だ? どうして出て行けない?
   湧き起こる未知の感情に戸惑い、シャルルは寝息を立てはじめているいろはを見た。
「……このままにはしておけない」
   その晩、部屋の明かりが消える事はなかった。
  
  
   翌日、いろはは目覚めて最初に、部屋が原形をとどめないほどに荒れている事に驚いた。しかも、シャルルがスーツ姿のまま床に寝ている。
「いったい、何が起こったの?」
   半身を起こし、自分の体を確認する。……服が乱れている。留めていたヘアピンも、そしてイヤリングもない。
   いろはが青ざめた顔をしている時に、ちょうどシャルルが目を覚ました。
「やあ、気分はどう?」
   シャルルの寝ぼけ眼に映ったいろはは、自分のわななく手を見つめていたが、シャルルの声を聞いて、首だけこちらに向けた。
「…………」
   無言で自分を睨むいろはに、シャルルは身を引いた。まさかまだ酔っているのか。するといろはが口を開いた。
「昨日の晩、何があったの?」
   凄まじい気迫に押され、シャルルはうまく言葉が出なかった。
「いや、君が僕を誘って、僕がお酒を飲ませたら君が酔っ払って、暴れ出したからベッドに横にさせて、あとは一晩中……」
   僕が看病したんだよ、と言おうとしたシャルルだったが、そのまえにいろはがこうつぶやいた。
「なんてこと……」
   声が震えている。
「代償は大きいわよ、責任とりなさい!」
   最後は怒号となって、いろはは立ち上がった。拳を握り締め、射殺さんばかりにシャルルを睨み付ける
「なんで、あんたなんかに……。許さない」
「ちょっと、誤解……」
   シャルルはその時、おもわず声を失った。
――涙……?
   しかしシャルルかそれを確かめる間もなく、いろははどこからか取り出した太い杖を両手に掲げ、叫んだ。
「燃えろ!」
   瞬間、シャルルの周囲の空気がふわりと揺れたかと思うと、次の瞬間には青白い炎がシャルルを包み込んだ。
   高温の閃光は次第に凝縮し、ある一点に達した瞬間、弾け飛ぶ。
   指向性の高い爆風にシャルルは吹き飛ばされ、二階の窓を突き破って宙を舞った。数秒ののち地響きが聞こえ、いろははぜーぜー言いながら窓から下を見下ろした。
   すると、人の形をしたクレーターから、ずたぼろになったシャルルがはいずり出てくるところだった。あれだけの炎と爆発にもかかわらず、喉の奥から声を絞り出すくらいの体力は残っているようだった。鼻血で顔を染めてはいたが。
「いまのはフィジカルじゃあ……」
   いろはは鼻息を荒くしながら答える。
「できないなんて言ってないわ」
   いろはの普段使うものは、呪文の詠唱と儀式的な動作を媒介として、霊力を精神的現象に変換させる『召還』。一方、特別な呪文や動作を必要とせず、霊力を物理的現象に変換させるのが『物理魔法』。基本的な原理は同じながらも、その結果の性質があまりにも違うため、両者は通常相反するものとされている。だから両方の会得は不可能だと、シャルルは思っていた。
――自分なんかとは比べ物にならない力量だ……!
   奥歯を噛む力が強くなるのを感じながら、シャルルはやっとの事で立ち上がった。 二階にいるいろはを見上げ、説得を試みる。
「話を聞いてくれ、君は誤解している! 話せば分かる!」
「問答無用! 『散れ』!」
   まったく聞く耳持たぬいろはが左手を振り下ろすと、シャルルの足元の大地が揺れ、小石が飛びあがった。
――分解の呪文……!
   物体を構成する最小組織そのものを分解、飛散させてしまうものだ。
「だが、そう簡単にはっ倒されてなるもんか。なおさら誤解を背負ったままじゃあね!」
   言い放ち、シャルルも左手を振りかざす。
「溶けろ!」
   するとシャルルを中心に、波紋のように振動が収まっていった。
「沈静、浄化の呪文だ。まず落ち着いて話を聞いて欲しい」
   真摯なシャルルの視線に、いろはも掲げていた手を下ろした。
   シャルルは手振りを交えて力説する。
「まず、君は僕が、君のその……寝込みを襲ったと思っているけど、それは誤解だ! たしかに、最初はそういう下心が多少あったかもしれない。 だけど、今は違うんだ、信じてくれ」
   いろはは意外そうな顔をして、口上を続けるシャルルを眺めている。
   そして数分。やっとシャルルが説明を終えた。
「……というわけなんだ。だから、誤解なんだよ」
   すっかり疲れた表情のシャルル。いろははなにか納得のいかないような眼差しで、こう言った。
「……で、私のイヤリングはどこへやったの?」
「はっ?」
   今度はシャルルが目を丸くした。
「じゃあさっきから言っていたのは、イヤリングの事……?」
「あったりまえじゃない。あんたなんかが持ってていいものじゃないわ。しらばっくれてないで返しなさい」
   シャルルはそれこそ見当違いと、声を荒げる。
「僕が知るはずないだろう、よく部屋を探してみたのか?」
   言われて、いろはは部屋の中に引っ込んだ。
   ふたたび数分後。
「……あったわ」
「ほらね」
   不機嫌まるだしなシャルルに対し、ばつが悪そうにいろはは頬をかいた。
「大事なものだったのよ。……悪かったわよ、疑って」
   シャルルは悪びれるいろはの顔を見た時、昨日の感情が再び背中を貫くのを感じた。
――実際、素直でいい子じゃないか……。
   そのとき、シャルルの脳裏にある事が思い浮かんだ。
「謝らなくていいよ。そのかわり」
「そのかわり?」
「僕の、妻にならないか?」
   次の瞬間。シャルルは発火の呪文で再び吹き飛ばされた。
「それ以前の問題ね。おあいにくさま」
   あきれ果てた様子でそういうと、いろはは部屋に引っ込み、荷物をまとめて出てきた。
「あんたが私を負かせるくらいになったら、考えてあげてもいいけど?」
――冗談でもそんなワケないけど。
   胸中で唾棄しながら、いろははハイヤーに乗り込んだ。
   遠ざかるエンジン音を耳の奥で聞きながら、ぼろ雑巾のようになったシャルルは歯噛みした。
「力がなければ、気持ちすら伝わらないっていうのか……?」
   その答えは、一年後まで持ち越されることになる。
  
   ◇◆◇◆◇
  
   すでに日は沈みかけ、夜の帳が頭上にかかる時刻。悟は混み合う商店街を抜け、御霊駅裏の河川敷に来ていた。
「かないっこねえよ……」
   土手を歩きながら、悟は愚痴をこぼす。同時に、自分の容姿を確認する。「さえない」といろはに馬鹿にされた顔。日に焼けたざんばら髪。一七〇そこそこの身長。しわだらけの学生服……。
   ため息だけがとめどなく出てくる。
「あいつも、なんだかワケわかんない手品使うし、俺なんかよりよっぽどいろはに……」
   それ以上は声に出せなかった。出したら、になってしまいそうだから。
――いや、考えてもみろ。いろはの反応を見れば……。
「見れば……」
――あの様子、まんざらでもない……?
   悟はさらに肩を落として、立ち尽くした。
「けど、見た目の問題じゃない……、要は気持ちだ」
   むりやり顔を上げて、拳を作る。しかし、空元気は更なる空虚を生むだけだった。
「……駄目だ」
「あきらめていいのかい?」
   頭にくるほど自信たっぷりな声が、悟を振り向かせた。
「僕と対立する事か、それとも、彼女自体をあきらめるという事かい?」
   そこに立っていたのは、腕組みをして不敵な笑みを浮かべている、シャルル・アンドレアだった。
「……お前に、何が分かるんだよ」
   敵意をむき出しにした声で問う。
「分かるとも。僕も君と同じだからね」
   悟が驚いた顔をするのを見て、シャルルはからかうような口調で続ける。
「果たして彼女が僕に振り向いてくれるのか、僕を見てくれるのか。不安で、たまらないんだ」
「知った風に言うな!」
   声を荒げる悟に対し、シャルルは鋭い視線でその目を射る。
「事実さ。君は気づいていないだけだ。自分の気持ちも、彼女の気持ちも」
「いろはの、気持ち……?」
   言葉を失う悟。
「彼女は僕なんか眼中にないんだ。なぜか? ……君がいるからだ」
「俺が? なんで?」
   シャルルが嘆息と共に、その眼光をいっそう鋭くした。
「……やはり、君と一緒だと、彼女は幸せになれない!」
   言うなり、シャルルは悟の胸座を、身体がわずかに浮くほどの力で掴みあげた。
「君のその態度が、どれだけ彼女を苦しめてきたのか分かってるのか?君は何も分かっちゃいない、彼女がどれだけ……」
「やめなさいっ!」
   シャルルの言葉を遮ったのは、額に汗浮かべ、息を切らして走り回ったいろはの声だった。いろはは肩で息をしながら、シャルルに歩み寄る。いろはを見たシャルルが手の力を抜くと、悟はその場にくずおれてむせ込んだ。
   あと一歩の距離まで近づいて、いろははシャルルを見上げる。
   その刹那、平手がシャルルの頬を打ち、乾いた音が夕暮れの河川敷に響いた。
「調子に乗るのもほどほどにしなさい。いつまでもあんたの勝手に黙っていられるほど、あたしは人間できちゃいないのよ!」
   更に追い討ちをかけるように舌鋒が牙をむく。
「大体なによ、自分ひとりで私を落とす自信がないからって、悟に手ぇ出したりして。悟がいなくなれば、あたしがあんたになびくとでも思ったわけ? そこが調子に乗ってるっていうのよ」
   たじろぐシャルル。しかしいろはの機関銃は止まらない。
「あたしのことは全て知ってるようなこと言っときながら、何一つ分かってないのはあんたの方よ。人にいちゃもんつけるより、ちったあ自分を見たらどうなの?」
   あまりの暴言に、シャルルは涙ぐんでいる。そしてついに、いろはは最後の一撃を繰り出した。
「あんたは何なのよ! 人の事はどうだっていい、あんたの何が誇れるのか、それがしっかりしない男なんかと結婚するくらいなら、悪魔と終身契約でも結んだ方がまだマシだわ!」
   言い終わって、いろはは「あーすっきりした」と息をついた。
   すっかり打ちのめされたシャルルが、涙声ですがる。
「だって、あのとき『私に勝ったら考える』って……」
   それに対しいろはは冷酷に告げる。
「あれは日本じゃ体のいい断り文句よ。極東の文化のいい勉強になったでしょ?」
   しばらくシャルルはうなだれていたが、拳を作るとそれを地面に叩き付けた。
「どうして! この気持ちは嘘じゃない、この気持ちが僕自身なのに!」
   拳をわななかせ、歯を食いしばるシャルル。
「なにバカ言ってんのよ」
   ふいに顔を上げる。美青年が涙で台無しになっていた。
「その気持ちが私じゃない誰かにうつったら、あんたはどうなるのよ。誰に惚れても、心変わりしても、変わらない自分があるはずでしょ」
   シャルルははっとして、そして再び鳴咽をこぼした。
   日は完全に沈み、どこからか帰宅を誘う、もの悲しげな音楽が聞こえてくる。悟は下唇を噛んで、いろはの顔を覗き見た。
「あのさ、俺、やっぱ情けないよな……」
「?」
「こいつが出てきたからって、俺があきらめる理由にはならないのにな」
「何をあきらめるのよ?」
「それは、お前を……」
「ああっ、こんなところにいた。シャルル――!」
   突然割って入ったのは、目の覚めるようなブロンドの清楚な美女だった。ひらひらしたツーピースドレスを身に纏い、軽やかに駆けていく。
   その高く、間のびした声を聞いて、座り込んでいたシャルルが突然立ち上がった。
「カ、カテリーニァ! なんでこんなところに!」
   美女カテリーニァはさらに加速をつけると、五メートルの間を置いていきなり跳躍し、シャルルに飛びついた。
「探したのよ! 人のよさそうな角川っていうおじさまに道を聞いて。あなたがいないと私……淋しくて」
   そのやり取りを遠巻きに見ていたいろはと悟。いろはが呆れ顔で口をとがらせた。
「なによ、いいひとがいるんじゃない」
   カテリーニァはさらにのろけて、シャルルの頬をつまんだりしていたが、いろは達を見てぺこりとお辞儀した。
「シャルルのお知り合いの方ですか? 夫がお世話になりまして……」
   『夫ぉ?』
   いろはと悟の視線がシャルルに向けられる。
「ち、ちがう、カテリーニァがそう言っているだけで……」
「幼いころからの許婚ですもの、夫同然ですわ」
   いいつつシャルルの首に抱きつく。
   いろはは「アホらし」と、きびすを返した。悟もそれについていく。
   しかし途中で振り返り、シャルルに向かって言い放った。
「あんたがそんなんじゃ、彼女を幸せにしてやれないぜ!」
   それを聞いてシャルルが苦笑したのを、悟はしっかりと見ていた。
  
  
   日の暮れた河川敷。いろはと悟が肩を並べて歩いていた。
「悟、ところでさっきの話だけど、何をあきらめるのよ」
「えっ、それはつまり……」
   言いよどむ悟に、いろはは疑惑の視線を投げかける。
「なんかよからぬことでも考えてたんじゃないでしょうね?」
   いろはの言葉に、悟は思わず声を荒げた。
「それはこっちのセリフだろ! いつもいつも変な事しでかして、だれがお前を心配してると思ってるんだよ!」
   そこまで言って、悟は慌てて口をつぐんだ。いろはは驚いたような顔でこちらをみている。しかし、すぐにそっぽを向くと、懐から眼鏡を取り出して瞳を隠した。
「あんたなんかに、心配なんかしてもらう必要……」
   語尾を濁すいろは。
「えっ?」
「うるさいわね、あんたに心配してもらう必要なんか、これっぽっちもないって言ったのよ!」
   留めてあった自分のスクーターにまたがると、いろははそのまま走り去っていってしまった。
「……俺が心配してやんなきゃ、誰がするってんだよ」
   遠ざかる背が、宵闇に飲み込まれていく。
   悟はその時、誰かを忘れているような気がしていた。
  

  
   ――ラテン・マジック おわり

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