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いろはの幽霊喜談 学園篇
   憂鬱はそこはかとなく
  
  
  
今日は朝からついてない。二度失敗して三度目にやっときれいに割るのに成功した卵は腐ってたし、洗顔料と間違えて歯磨きを顔に塗ったくってしまったし、タンスの角に小指ぶつけるし、ベルトは締めようとした瞬間にいきなり切れるし、案の定今日の運勢最悪だったし、 コンタクトは落とすし、玄関先でヒールは折れるし、車のフロントガラスにはハトの●●がついてるし……。
「でも今日は授業が三時間しかなくてよかった……」
   安堵の息を漏らしながら桜吹雪の校門をくぐる。校舎の裏にある駐車場に車を停め、サイドミラーを覗くと、薄い水色のブラウスの上にダブルスーツを羽織り(どうせ中に入ってすぐに脱ぐのだから)、ボブカットの髪をピンで留めた色気のない顔が見えた。化粧っ気のないすっぴんな肌。子供相手に化粧してもしょうがないし、元々化粧が苦手なこともあって、決して手を抜いているわけではない。それにすっぴんには多少自信があった。
   つり気味の目尻を指でマッサージしつつ、作り笑いで顔の筋肉をほぐす。しっかり、いい顔いい顔。そう自分に言い聞かせて、高校教師、佐伯 操子は職員室へと向かった。
   今日から新年度。とはいっても、教師である操子は春休みの間も出勤して、生徒の成績表の整理や、休み明けのテストの作成に追われていた。そして今日がそのテスト当日。主要三教科のみのテストで、しかも操子の担当している二年生の英語は一時間目ときた。残りの二時間は、試験監督をしながら採点に当てられる。もちろんこの採点は自分の受け持つ三クラス分だけをすればいいのであって、それほど苦になることではない。
   その日もごく普通に一日が過ぎてゆくはずだった。
  
   ◆◇◆◇◆
  
   今日は朝からついてない。
   いや、もしかしたら昨日の時点ですでについていなかったのかもしれない。
   いやいや、そんなことをいったら、この高校に入学してからずっとついてないと思わざるを得ない。
   とにかくついてない。何の因果で日中に肉眼で高度三二キロメートルにある「ひまわり」が見えてしまわなければならないのか、なぜ前方数十メートル先にいる人の、若白髪の数が数えられてしまわなければならないのか、どうして教室の最後尾から壇上にいる試験官の中年教師が着ている、ワイシャツの襟元についている小さな虫が、前肢を擦りあわせているのを観察できたりしなければならないのか。
   数々の疑問の答えは既に知れている。いやと言うほど分かりきっている。あの弁当もどきのせいだ。自他共に認める希代の鬼才少女、紫雨いろはが今朝自分に渡した、わざわざ弁当箱にはいった数粒の錠剤。あれを飲んだせいだとしか考えられない。いや、そうに決まっている。
   なぜいろはに弁当を渡された時点で変だとと思わなかったのか。いくら脅されたとはいえ、なぜ錠剤と言うきわめて怪しいものを飲んでしまったのか……。騙した相手への怒りと騙された自分への情けなさに嘆息しながら、下唇を噛んで、少年は後悔した。
   少年は御霊高校の制服に身を包み、ざんばらな頭髪は手ぐしで梳いただけの感がある。その顔貌はまだあどけない子供っぽさと、青年の大人びた雰囲気が同居していて、目鼻立ちも整っていた。
   見えすぎると気分が悪くなるので、できるだけまわりの景色を見ないように目を伏せる。すると、机の上でのたうつ微生物までが見えてきそうになったので、その少年、新堂悟はあわてて目を閉じ、居眠りを決め込んだ。
「……な」
   こつん、と何かが頭に当たる感触と共に、息をひそめた声が悟の耳に入ってきた。だが、夢うつつで反応する気がしない。
「……るな」
   コン、と今度はさっきよりも硬いものがぶつかった。消しゴムのたぐいだろうか、少し弾力が合ったような気がする。それに左どなりから聞こえてくる声もさっきより大きく、はっきり聞こえてくる。ハイトーンな、声変わりのしていないような女の、少女の声。高音の管楽器の音色のようにも聞こえるその声は、毎日すぐ側で耳にしているような気がする。
「まだ……んだから……るな」
   声の調子が強くなってきた。息を潜めている様子もない。これでは教師にもかすかながら聞こえてしまうほどの声量で、少女の声が聞こえてくる。
   夢の淵からはいずり出た状態で、悟は目覚めるべく最大限の努力――瞼をこじ開けようとした。
「うーし、んじゃま終わりっつーことで後ろのヤツ解答集めてー」
   チャイムと同時に試験官の中年教師のだみ声が響いた。やれやれと息をはきながら悟が上体を起こしたその時、
「まだ計測が済んでないから寝るなって、さっきから言ってんのよ!」
   怒号と共に、厚さ十センチはあろうかという英語辞書が、悟の脳天めがけて振り下ろされた。
   米袋をバットで殴りつけたような鈍い音が喧燥を突き破って響き渡り、悟は机にしたたかに顔面をめり込ませた。
「どーすんのよ! 今日の測定が全部おじゃんじゃない! 責任取んなさいよね」
   仁王立ちになって、非常に自己中心きわまりない暴言をふるいつつ、昏倒する悟を睨み下しているのは、この学校で知らないものはおらず、「東洋の魔女」「笑う呪術者」と後ろ指さされ、「ファウストの再来か」とも噂される紫雨いろは、その人だった。
   色白で一見華奢な体つき。身長は小さく、一見すると中学生と間違われかねないが、しっかりと御霊高校の制服を着こなしている。赤味を帯びたセミロングの頭髪を、左手でかきあげると、いろはは「ふんっ」と息をついた。いたずらに狡猾そうな光を放っている大きな瞳も、いまや憤怒の色に染まっている。
   と、突然机に突っ伏していた悟がばねのように起き上がり、頭蓋にめり込んだハードカバーの辞書を引きぬいて叫んだ。
「おまえっ、いまカドで殴っただろ!」
「そういう問題じゃないだろ……」
   微かにもれる群集の反応はまったく眼中にない様子で、いろはは怒り心頭に発している悟の抗議をにべもなく却下した。
「気のせいよ。だいたいあんたが日がな一日、年がら年中ヒマそーにしてるからあたしが気をつかって新薬のモニターをさせてやってんのに、何よ! 人の厚意をことごとく無駄にして!」
   いろはは早くに両親を亡くし、身内もなく、生活費は企業に頼まれた新薬の開発や、オカルト雑誌の運営と記事の掲載、以前取った特許になどよる自分自身の収入でまかなっている。国の援助金を受ければよさそうなものだが、いろははあえてそれを拒否していた。
「何が厚意だ、モニターの名目で毒薬と紙一重の薬を飲まされたりしてたら、命がいくつあっても足りやしない、体のいいモルモットじゃないか!」
「いや、むしろモルモットそのまんまだと思うけど……」
   二人の間で、勇気ある少数の人たちがか細い反論を掲げたが、二人には聞こえている様子はない。
「とにかく今日と言う今日は俺だって黙っちゃいないぞ、徹底的に反抗してやる!」
   左手をグーの形に握り締め、右手を横一文字に振って叫ぶ悟。いろはは後ろ手に何か黒光りするものをもてあそびつつ、冷ややかな視線を投じる。
「具体的になにをどう反抗するのよ」
   悟は「聞いて驚くな」などとうそぶいて、指折りし始めた。
「学校を休んで片田舎の農村に逃亡して、農場でも経営して慎ましやかな生活を送りつつ、その日暮らしに明日への希望を抱きながら、ブタや鶏たちと一緒にささやかな幸せをかみ締めてやる!」
「思いっきり後ろ向きね……」
   肩を落としかけたいろはを横目で見やった悟は、突然胸元から一枚の二色刷りのわら半紙を取り出し、それをしげしげと見て言った。
「おっ、こんなところに広告が……。なになに、棚卸しによる在庫整理のため、大安売り。アンティークショップ『猫の髭』」
   悟がそれを言い終えないうちに、その手から広告をひったくったいろはは、不気味な笑みを浮かべた。
「悠久の時を経てうつしよに相まみえし数々の時代の道標たち、待ってなさい!」
   何やら怪しく独りごちながら、風のように走り去っていったいろはの方を、教室の全員が唖然とした表情で見送る。そんな沈黙の中、中年教師が寂しげな声を発した。
「……んじゃまー、解答集めてー」
  
   ◆◇◆◇◆
  
   今日は朝からついてない。
   朝早く起きて、試験に備えての最終チェック――教科書丸暗記――をしようと思って目覚ましをかけていたら、夜中に電池が切れて鳴らなかった。朝ごはんは私の嫌いな目玉焼きだった。今日に限ってバスがいつもより早くきて、バス停まで息を切らせて走った。しかもバスカードが切れてて現金で払おうと思ったら小銭がなくて、ラッシュの中両替えに一苦労だった。
   でも、でもそんなことはどうでもいい。ささいな日常の出来事だ。問題はその後。学校の玄関の近くで、私は見てしまった。中学校からの先輩で、サッカー部二年生の新堂先輩が、なんと女の人からお弁当をもらっているのを!
   正直言えばショックだった。いろんな意味で。朴念仁だと思っていたあの新堂先輩に、ほかの先輩からホ○っ気があると馬鹿にされていたあの新堂先輩に、……彼女がいたのだ。
「……でも、もしかしたら妹かもしれないじゃない。あんなに背、小さかったんだもの。きっとそうよ。新堂先輩どっか抜けてるところあるから、自分のお弁当持っていき忘れただけよね、きっと」
   そう自分に言い聞かせようと、一人でうなずいてみたが、心の方は落ち着いてくれなかった。テストの一時間目が始まっても、頭の中から必要なことが全部抜け飛んでしまったようで、テストもわからずじまいだった。
   後ろでゆるく三つ編みにしている髪を左手でなでながら、もう片方の手でかけている銀縁のめがねを直す。どこにでもいそうな女学生。そんなありふれたイメージを彼女は持っていた。
「でも、そんな先輩が好きだってひともいるのかも……」
   その日、御霊高校一年C組の橘 早百合は、答えのでない疑問に悶々と頭を悩ませ、入学早々見事に二つの欠点科目を生産することになる。
「終了、鉛筆を置いて回収」
   試験官の声で現実に引き戻された早百合は、真っ白な解答用紙を渡すと、外気に触れて頭を冷やそうと廊下へ出た、その時だった。
「ごつんっ!」 と表記できそうな音が、廊下にいた何人かの生徒の耳と、早百合の脳髄に響き渡り、早百合は平衡を失った。
   一瞬のことで何がなんだか分からないまま、早百合はコンクリートに背中を打ちつけた。その衝撃で息が詰まり、吸えなくなる。額に脂汗を浮かべながら慌てて身を起こすと、そこには見覚えのある女子が側臥の状態――保健の教科書にそう描いてあったのが、なぜかすぐに頭に浮かんだ――で倒れていた。
   頭を振り、打ちつけた腰をさすりつつ、早百合はその女子に歩み寄る。そしてその顔を見て息をのんだ。
「あの時の、先輩の彼女……」
   小柄で、細い手足の色白の少女。タイの色が赤なので自分より一つ年上……新堂先輩と同学年。形のいい唇は半開きで、そこから規則的に吐息がもれている。赤みがかったセミロングの頭髪は乱れ、一見して意識がないのが分かる。早百合は、その女子が悟と同学年ということだけで、無意識に彼女と決め込んでいるという事に気づいていなかった。
   慌ててその肩を起こし、声をかける。反応は無いが、規則的な呼吸をしている。頭を打っていたら脳震盪を起こしているかもしれない。早百合は自分の胸ぐらを握り締めた。
「誰か、先生を呼んできてください!」
  
   ◆◇◆◇◆
  
   悲痛ともいえる叫びが操子の耳に入った。回収した解答用紙を小脇に抱えてその声の方向へ走り出すと、廊下でひとりの一年生が、倒れている女子の体を必死にゆすっていた。
「一体どうしたの?」
   操子が呼びかけると、その一年生は涙目で振り返り、事の次第と倒れている女子の意識がないことを話した。倒れている方は二年生らしい。
「分かったわ、その子は私がおぶって保健室に連れて行くから、あなたは次の時間の試験に備えなさい」
「で、でも……」
   一年生の声を背後に、操子は見た目より軽い生徒を背負って、小走りで保健室へと向かった。どうやら本当に今日はついてないみたいだ、などと胸中で嘆息しながら。
   保健室の前までやってきたが、両手がふさがっているのでパンプスで戸を開ける。足がつりそうになったところで、中から白衣を着た女性が顔を出した。
「どうしたの、一体?」
   人は局面に直面すると、ボキャブラリーが低下するのだろうか。先の操子と同じような言葉を発して、その女性――保健医の岸辺 由加里は、その眼鏡の下のどんぐり眼をしばたいた。
「由加里、この子お願い」
   額に汗をにじませた操子は、背中の少女を一番奥のベッドにおろすと、コップに水を注いで飲み干した。
「ふう……。この子、休み時間中に廊下でほかの生徒とぶつかって、頭をぶったらしいのよ。脳震盪を起こしてるかもしれないわ」
   言い終えて、ベッドの方を見やると、由加里は棒立ちのまま、無造作にベッドに置かれたままの少女を見ていた。その表情はこわばっていて、口がぱくぱくと声にならない言葉を発している。
「どうしたのよ、早くちゃんと寝かせ……」
「……東洋の魔女」
「へっ?」
   自分でもすっとんきょうと分かるような気の抜けた返事をしながら、操子は由加里の隣まで歩み寄る。
「笑う呪術者……、紫雨いろは……」
   わなわなと肩をわななかせ、ぎこちない動きで由加里は首から上だけを振り向かせた。
「あなたも知ってるでしょう? IQ183の頭脳を持つ超高校生的天才少女がいるって話! 週に一度くらいしか学校に来ないくせに成績は常にトップ前後。大手製薬会社の特別開発室長をしてるだとか、突然変異の好気性ボツリヌス菌を培養しているとか、夜な夜な呪術に傾倒して魔法陣を描いてるとか、悪魔を従えてるとか、不気味でまことしやかな噂がいくらでもあるじゃない! それでついた異名が『東洋の魔女』『笑う呪術者』」
「知ってる。すごい問題児なんだけど、その頭脳ゆえに学校としても手放せないでいるっていう……」
   そこまで言って、はっと操子は息をのんだ。
「っていうか、紫雨いろはって……。私のクラスだ」
   操子はいよいよ自分のつきの無さに、ある種の運命を感じていた。
「私はもともと不幸の星の下に生まれたのかもね……」
「ぶつかった方もね……誰なの?」
   戦慄の表情で由加里は十字を切った。そしていろはをきちんとベッドに寝かせ、毛布をかける。まるで死体を扱うような、そんな手つきで。
「一年生ってことしか分からないな……。私テスト監督しなきゃいけないから、後は任せたわ」
   由加里は一瞬だけ「うげっ」という苦い顔をしたが、立ち去ろうとする操子の背に、人差し指を立てて言い放った。
「一つ貸しよ。今日の日替わりランチで許してあげる」
   去り際に指でOKの形を作って、操子は後ろ手に引き戸を閉めた。
   ふう、と一息ついて、由加里は保健室を――とくに爆弾が安置されているベッドを見た。カーテンを閉めてあるので姿は見えないが、それが更に恐怖を助長させた。
  
  
   由加里といろはの邂逅は去年の春、入学式当日だった。
   発熱と頭痛を訴え、突然教師や生徒が次々と保健室に運ばれてきて、由加里はてんてこまいになった。ただの風邪ではありえないし、食中毒ならまず腹にくるはず。化学物質なら初期症状で発熱というのも聞いたことがない。
   119番はしたものの、氷枕と手ぬぐいを用意することしか頭が回らず、おたおたしていた由加里のもとに、現れたのだ。薬袋を持った東洋の魔女が。
「ケミカルじゃないとしたら、バイオロジカル。しかも効果範囲が均一で人数が限られているということは、抗体がある人とない人の違いか、もしくは媒介になにか特別な方法を使ったか……」
   そんなようなことをぶつぶつとつぶやきながら、患者の一人に歩み寄ってその額に手を当てる。そして再びぶつぶつ言いながら、薬袋から小さな錠剤を二、三種類出した。
「ホルモン剤と解熱剤。ホルモン剤は朝夕二回、解熱剤は朝昼晩の三回、食前に飲ませて。後は風邪と同じように、頭を冷やして、体はあったかくしていれば二、三日でよくなるわ。お大事に」
   薬の添え書きのようなことを流暢に言い、すぐにきびすを返したいろはは、やはり来た時と同じようにぶつぶつ独りごちながら帰っていった。
   しばらく呆気に取られていた由加里だったが、患者のうめき声に我を取り戻し、氷嚢を抱えて保健室の中を奔走した。――さすがにあの薬は飲ませなかったが……。
   結局救急車が出動し、計二十四名が病院で治療を受けたが、入院するものは一人もいなかった。その時、大病院の内科医が「ホルモンの異常分泌による体調の急変からきてますね。風邪の時と同じようにあったかくして、頭だけ冷やしていれば二、三日でよくなりますよ」と言ってホルモン剤と解熱剤を出したので、由加里は面食らった。紫雨いろはの言ったことと同じだったのだ。
   その数日後からだった。あの事件の張本人は紫雨いろはだったのではないかと噂されるようになったのは……。
  
   ◆◇◆◇◆
  
   ――やっぱり気になる。
   二時間目のテストが中盤にさしかかったころ、早百合の頭の中はさっきよりも混沌と渦巻いていた。アクシデントとは言え、これであの彼女と接点ができたわけだから、これを逃す手はない。今こそ言及すべき時なのだ。胸の底から湧いて出た不確かな確信が、早百合を駆り立てた。
「先生……、気分が悪いんで、保健室にいってきます……」
   演劇部顔負けの迫真の演技に、担当教師はすっかり騙されて「大丈夫?」などといいながら、早百合を送り出した。胸中で舌を出しながら早足に保健室に向かう早百合は、そのカノジョが「東洋の魔女」などという異名を持つ変人だということをまだ知らなかった。しかし、知っていたとして、何かが変わるわけでもないが。
「失礼します……、誰か、いらっしゃいますか?」
   小声で戸を開けつつ中を見渡すが、保健室には見たところ誰もいないようだった。校庭に面した窓は開け放たれ、夏用のレースのカーテン――保健室だけのもの――が風にたなびいている。窓に向かって左手に三つのベッドが並んでいて、一番窓際のベッドだけにカーテンが引いてあった。
   ――誰かいる。
   誰か、といったものの、それがあの彼女であることは間違いなかった。早百合は音を立てないように、忍び足でベッドに近づいた。そこからは規則正しい寝息がかすかに漏れていて、思わず早百合は生唾を飲み込んだ。震える手が自然にそのカーテンへ伸びていく。
   ――知りたい。この人が誰なのか、先輩とどんな関係なのか……。
   その時早百合の脳裏には、使命感のようなものが渦巻いていた。
  
  
   早百合はもともと、何事も自分で納得しなければ認めないという、生っ粋の頑固者だった。学校の授業でも、おかしいと思ったところは理解するまで先生に問い詰め、飛ばして先へ進むなどということは考えもしなかったし、遊びでも、自分で本当に有意義だと判断したものにしか興味を示さず、友達付き合いも少なかった。
   そんな早百合が新堂悟と出会ったのは、ちょうど二年前、梅雨前線が日本列島を覆っていたころだった。
   当時中学二年生だった早百合が、傘を忘れてずぶ濡れでバス停に佇んでいた時、傘をさした悟が息を切らせながらバス停にやってきた。しきりに腕時計で時間を気にしながらバスを待つその姿を見て、早百合は最初「受験生って忙しいんだな」と思っただけであった。
   やがてバスがきたが、それは早百合の乗るバスではなかった。しかし悟は傘をたたみ、ガードレールにかけ、そのバスに乗っていった。
「……ガードレールにかけ?」
   早百合は慌てて悟の傘をつかむと、去り行くバスに手を振る。しかしそこで見たのは、最後尾の席から「それ使っていいからさ」というジェスチャーをして笑っていた悟の姿だったのだ。しばらくバスが去った後をぼーっと眺めていた早百合は、借りた傘をさそうとはしなかった。
   それから三日後、たまたま同じ時間のバスで、悟と居合わせた早百合が傘を返すと、悟はただ照れくさそうにこういった。
「大丈夫だった? ……ならいいんだけど」
   なんと、彼は早百合が気を遣って傘をささずに雨に濡れて体が冷えたせいで、風邪を引いていないか、自分のことより先に早百合のことを心配してくれたのだ。
   その時早百合は直感した。これがそうなのか? この気持ちをそう名づけていいのか? 早百合の心臓は動悸を早めながら、この感情の波が尋常でないことを知らせていた。
   それから二年あまり。その悟と同じ学校に進学したのはいいが、早百合はその思いの答えを出せずにいた。
   そんな時に、彼女が現れたのだ。
  
  
   恐る恐るカーテンに手をかけ、そっと音を立てないように数センチだけ開けた。片目でその中を覗き込む。
「……う……ん」
   鼻から漏れる声がやけになまめかしく、早百合は頬を赤らめた。顔を覗き見ようとしたが、もっとカーテンを開かないと顔が見えない。背徳感と焦燥感の両方を天秤にかけ、結局勝ったのは横からしゃしゃり出てきた好奇心だった。
   さらにカーテンを開けようとすると、レールの継ぎ目に金具が引っかかってしまった。ぐいぐいとカーテンを引っ張っても、なかなかその部分を通過しない金具に苛立ちを覚えながら、さらに力を込めた瞬間。
   ばきん、と嫌な音がして、外れた。レールそのものが天井から。
「ひゃあああっ!」
   叫びながら早百合の頭の中には悔恨の情が渦巻いていた。……こんなことならカーテンを下からたくし上げて見ればよかった。いや、そこそこ覗くなんて行為自体あさましいこと、ああ、でも……。
   わずか一秒にも満たない間に痛恨の事態を後悔して、そして我に返った。すでに目の前にはカーテンの山。
「だ、大丈夫ですか?」
   一度ならず二度までも、自分の過失で相手を怪我させようものなら、自分にも異名がついて回るようになってしまう。「歩く事故原因」とか「恋をする時限爆弾」とか……。
   絶望的な気持ちでカーテンの山を押しのけると、その中からひとりの女性が顔を出した。見覚えのあるちょっと童顔で、化粧で無理矢理大人っぽく見せているきらいのある、黒ぶち牛乳ビン底眼鏡の……。
「保健の……先生!」
「ん、あぁ? あなた、一年生……って、なんじゃこりゃ!」
   自分を埋め尽くしているカーテンの山を見て、由加里は思わず声を上げた。そして突然やってきた頭痛にこめかみを押さえた。
「まさか、あなたがやったの?」
   その問いに早百合は赤くなってうなずいた。
「でも先生、あの二年生はどうしたんですか? 保健室にいるはずなのに……」
「あの二年生……? ああ、紫雨さん?」
   しぐれ……。そういう名前なんだ。あの人……。
「さっきまで私、仕事していたと思ったらいつのまにか寝てたみたいね。たぶんその間に帰っちゃったんじゃないかしら」
   そういってあたりを見渡す。ふと時計に目が止まった。
「あれ、今授業中じゃないの?」
   振り返った由加里の前には、いや、保健室にはすでに誰もおらず、ばたばたと走り去る音だけが廊下から響いていた。
「何しに来たんだ? アイツ……」
   ぽりぽりと頭を掻きながら、山のようにベッドに覆い被さっているカーテンを見て、由加里は呆然と立ち尽くした。実際、まだ意識が朦朧としていたが。
「それにしても、いつのまに寝てたんだろう……」
   由加里は自分が無意識のうちに、いろはの散布した大量のトリクロロメタンを吸ったことなど、知る由も無かった。
  
  
「しぐれ……、しぐれ……」
   二年生の昇降口にやってきた早百合は、「しぐれ」の名が書いてある下駄箱を見つけようとその一つ一つを覗き込んでいた。しかし、言葉だけで漢字が分からない。普通に考えると「時雨」なのだが、そんな名前はどこにもなかった。
   我ながら情けなくなるような行動だと思う。でも、その根元となる感情を否定することはできない。
   上から順に見ていって、一番下の段を見ていた時、ふと、わら半紙が落ちているのに気がついた。
「なに、これ。――棚卸しによる在庫整理のため、大安売り。アンティークショップ『猫の髭』――……これって」
   語尾を飲み込みつつ、早百合は新たに手に入れた「仮説」のもと、いそいで自分の外靴を取りに走った。
  
   ◆◇◆◇◆
  
   今日は朝からついてない。
   神経伝達に関与する酵素コリンエステラーゼの活性点にリン・フッ素結合を利用して働きかけ、視神経における伝達効率を大幅に上昇させる新薬が完成したので、そのモニターを悟にやってもらうべく、ピルケースを探したがどこにもなかった。仕方がないので弁当箱に入れておいたのだが、悟は何か勘違いをして機嫌を損ねてしまった。しかも、計測中に居眠りはするし……。あいつが迷惑そうな顔をして厄介払いしようとしたもんだから、ついムキになってしまったし。その上廊下で一年生と鉢合わせして頭をぶったせいで、さっきからめまいがするし……。
「ついてないのって、結局みんな悟のせいじゃない」
   この理不尽な責任転嫁を本人が聞いていたらさぞ怒ったであろうが、今いろははそれどころではなかった。
「でもその新薬、下手をするとサリンなんかと同じ毒薬になるかもしれないんでしょう? そりゃ誰だって怒りますよ」
   店の奥からくぐもった別の声が聞こえてくる。ここは商店街も外れの地下にある、アンティークショップという名目のマジックショップ「猫の髭」。いろはの行き付けの店だった。
「おじさん、そういう俗な言い方はよしてください。イソプロピル=メチルホスホン酸フルオリダート。サリンなんて呼ぶとイメージが悪くてしょうがない」
   口を尖らせながらも、ワゴンに積まれた怪しげな箱や、棚に陳列されている奇妙な形のペン立て、壁にかけてある異形の燭台などを片っ端から漁っていく。
   その姿をにこにこしながら見つめているのは、この「猫の髭」の主人、角川拓巳であった。頭にはメキシコ高原の酪農民族がつけるようなくすんだ色の綿の帽子をかぶり、上半身は白い貫頭衣の上にフェルトのような生地でできたケープを羽織っている。首や腕には無数のアクセサリーが散らばっていたが、どれもくすんだり錆びたりしたものばかりで、年代を感じさせる。
   それらを纏っているのは褐色の程よく筋肉のついた体で、顔貌は子供のようであった。にこにこと笑うと、とても幸せそうに見える角川は、十年前まで大学の助教授として、南北アメリカの土着民族についての研究をしていた民族学博士だった。
「悟君も災難ですね、東洋の魔女にかかっては」
   語調が丁寧なのは性格なのか、それともただ上の空なのか、狭い店内の隅で、角川は二重になったダンボール箱に乾燥剤と木像を梱包している。
「あたしが引っ張ってやらないと、悟ったら一日中ぼーっとするつもりよ! もっとしっかりしてもらわなきゃ」
   いろはは鼻息を荒くしながらも、まだ買い足りないのか、もう一度ワゴンの中を漁っている。そしてその中から、木彫りの両手のひら大の箱を見つけると、思わず声を上げた。
「これって、聖別を受けたものじゃない?」
   驚いたように顔を上げた角川は、いろはの手中の箱を見て嘆息した。
「本当に聖別を受けたものなら、そんな風に邪険にはしませんよ。よく見てください。底が二重になっていて、中にオスクルム・インフェイム用の彫刻があるでしょう?」
   いろはが箱をひっくり返して底板を外すと、底板の裏に男性器と女性器を具有し、さらに二つの目を有した悪魔の臀部がかたどられていた。陰部は幾度となく接吻を受けたのだろう。擦り減って凹凸がなくなっている。
   オスクルム・インフェイムとは、ラテン語で「恥の接吻」を意味する。中世ヨーロッパ、特に十六世紀後半から十七世紀前半にかけて、魔術と錬金術が社会の裏で横行したころに、「サバス」と「エスバス」からなる「カヴィン」と呼ばれる不気味な集会が開かれていた。中でもサバスは冬至、聖燭祭、豊穣祭、ベルテーン(メーデーの前夜祭)、夏至、収穫祭、秋分、ハロウィンと頻繁に開催され、森の中や墓地などでありとあらゆる反キリスト的な行為と魔術の伝授が行われる。悪魔による魔術の伝授はサバスの目玉で、そのためには悪魔に忠誠を誓い、その臀部や陰部に口付けしなければならないのだが、その口付けを「恥の接吻」という。
「でも、こんなもの博物館にも無いわよ、もったいない」
「本物だったら、ですけどね」
「贋物だとしても興味深いわ。どこで買ったの?」
「イタリアの蚤の市……だったような」
   そんな事を言いながら、今度は金色の耳飾りを丁寧に箱にしまっていく角川。
「さっきの話ですけど、程々にしておかないと本当に悟君、怒ってどこかへいってしまいますよ」
   横目でちらりといろはの方を見る。いろはは小さな編み物の腕輪を手に取ったまま、うつむいていた。視線は床に注がれていたが、心ここにあらずといった表情をしていた。
   ――なんだかんだいって、不器用なんですよね……。
   角川は笑みをこぼしながら、また別の品物の梱包にかかる。するとカウンターの前に、いろはが立った。
「おじさん、これ、全部ね」
   いろはがカウンターに商品を山積みにすると、角川は「豪儀ですねぇ」と苦笑し、「いい品だからよ」といろはが唇の端をつり上げた。
「毎度ありがとうございます。じゃあこれ」
   角川が出したのは、さっきいろはが手にしていた編み物の腕輪で、買い物には含まれていなかったものだ。いろははそれを不思議そうな面持ちで見る。
「おまけですよ。いつもたくさん買っていってくれますから」
   にこにこと笑いながらそう言われると、いろはとしても受け取らないわけにもいかなかった。仕方なさそうにそれを買い物袋の中に入れると、角川があごをさすりながら、その顔に笑みでしわを作った。
「それはタリスマンといって……って、言わなくても分かりますね」
   ぽりぽりと頭を掻くが、いろははしばらく無言のまま立ち尽くしていた。どこを見るわけでもなく、ただ、何かを考え込むような仕草で。それを見た角川は肩をすくめると、再び商品の梱包に戻った。
「願え、さすれば叶わん」
「?」
   いろはが驚いたようにこちらに向き直る。
「そのタリスマンに刺繍された言葉ですよ。言葉とは言っても文字ではありませんけどね」
   いろはは聞き入るようにカウンターに身をあずけた。
「色と、模様で意味を成しているんです。それにそのタリスマンは、マヤ族の織女が、神謡を歌いながら特別に織ってくれたものです。効果は、保証しますよ」
   唇の端だけで作った笑みに背中押されて、いろはは店から出た。景色は冬の衣を脱ぎ捨て、装い新たに季節の移ろいを祝っているように見える。頬なでる風もどこかしら、命あるものの香りがする。
   平日昼間の人通りの少ない商店街を歩きながら、いろはは重い荷物をひっきりなしに左右の手で持ちかえていた。そしてようやく商店街の出口にあたる交差点にさしかかった。
   ――でも向こう側から見れば入り口なのよね……。
   くだらない独白を声には出さず、道路の向こう岸を見やった。ふと、御霊高校の制服が目に入る。緑色のブレザー上下――いろは自身は幼稚園のスモックの色を彷彿とさせ、あまり好きではないのだが……。どうやら女子のようだが、時間も時間なので、学校帰りだろうと特に気にしなかった。
   やがて信号は青に変わり、電子音のメロディーが流れる。いろはは反動をつけて重い荷物を持ち上げると、横断歩道を渡り始めた。
「……紫雨さん、ですね」
   ちょうど半分ほどで、突然声をかけられ、いろはは立ち止まった。見ると人の波の中、ただひとり立ち止まってこちらを見つめて、いやむしろ睨み付けている少女がいる。御霊高校の制服。長い髪は後ろで三つ編みに結わえ、銀縁の眼鏡をかけたその姿は、どこにでもいそうな「できる女学生」然としていた。
「お話があります。ここじゃなんですから、あそこのファミレスへ」
   いつもなら軽く突っぱねて帰路を急ぐいろはだが、その女子の目があまりに真剣だったので、何故か話を聞く気になった。
  
   ◆◇◆◇◆
  
   ――とうとうつかまえた。もしやと思って来てみたのが正解だった。ここで新堂先輩との関係を言及して、白黒はっきりさせないと私の気がおさまらない。
   ウェイターにソフトドリンクを二つ注文し、出されたお冷やを一気に飲み干してから早百合はいろはを見た。明らかに不機嫌そうな顔でこちらを見ている。ぶつかった視線を外さないまま、話を切り出す。
「紫雨さん……ですよね」
「あなた、失礼ね」
「えっ?」
   突然言われたので早百合は言葉を失った。二の句が継げないでいる早百合を一瞥して、いろはが続ける。
「自分の名を名乗るくらいの義もない人と、話すことなんか無いわ」
   うっ、と身じろぎして声を詰まらせたが、早百合はなんとか構え直す。
「私は、一年C組の橘早百合です。あの、紫雨さん、ですよね」
「そうじゃなかったら、ここまでのこのことついてくるわけ無いでしょう?」
   ――苦手なタイプだ。
   直感的に早百合はそう思った。脈絡が無いのに何故か筋のとおっている話し方、人を見下すような態度、苦手というより嫌いなタイプに近い。
「……で、話って何?」
   ウェイトレスが持ってきたアイスコーヒーに砂糖を溶かして、いろははストローに口をつけた。そのまま上目づかいで返答を迫る。
   出鼻をくじかれた早百合は、率直に話を切り出す自信を失っていた。
「あの、今朝……、新堂先輩に、お弁当渡してましたよね」
   それを聞いて、いろはは目の色を変えた。焦りと驚きをはらんだ色。
「あ、あれは、その、決して弁当なんかじゃなくて……」
   それまでの毅然とした態度が一変、狼狽が目に見えて明らかになった。早百合は確かな手応えを感じて、自分もレモネードに口をつける。
「でも、何か渡しましたよね。あれは何だったんですか?」
「ど、どうしてあなたにそんなこと言わなきゃ、いけないのよ」
   いろはの態度に、早百合の語調が次第に強くなる。
「紫雨さんと、新堂先輩は、どういうご関係なんですか?」
  
   ◆◇◆◇◆
  
   ――一体いきなり何なの?
   いろはは動揺していた。自分に対しこうも挑戦的な態度で接してくる人間はただ一人としていなかった。それなのにこの子は、怖いもの知らずというか、向こう見ずというか。だがなぜこんな事をいちいち言及されなければならないのか、いろははいよいよ腹が立ってきた。
「いい、あなた何か勘違いしてるみたいだから、よく聞いて」
   強い調子で相手の返事を圧殺する。早百合もテーブルに身を乗り出すようにして聞く体勢を整えた。
   いろはは一時間という長い時間をかけて、一つ一つ順を追って愚痴を交えながら説明していった。今朝悟に渡したのは弁当ではなく、薬だったということ。適当な入れ物が無かったこと。その薬というのはある製薬会社の特別開発室長としていろはが独自に開発していたものだということ。その薬というのは有機リン系化合物を主成分としているということ。その効用が視神経伝達の活性化を目的としたものだということ。そのしくみがリン・フッ素結合を利用し、神経伝達に関与する酵素コリンエステラーゼの活性点に作用させることだということ。原材料となる有機リン系化合物の入手が、九三年のCWC(化学兵器禁止条約)の調印や、九五年三月に成立した「化学兵器の禁止および特定物質の規制などに関する法律」つまり化学兵器禁止法により困難だということ。更にその会社では開発費が少なく、自腹で二百数十万捻出したこと。企画、試作、マウス(動物実験)の段階では通っていたのに、臨床試験になってその新薬の開発が無期限凍結になったこと。仕方なく悟で臨床試験をしてその結果を上層部に提出し、安全性を認識させ、学会への進出を企てていたこと……。
   などなど、初めは息を呑んで聞いていた早百合も、CWCが「Chemical Weapons Convention」の略だと聞かされたあたりから、もともと何を話していたのかよく分からなくなって、ただ相づちを打っていた。
「じゃあ、まだデータの整理が残ってるから。あ、お金は私が出しておくわ。ごゆっくり」
   早口にそういうと、いろはは荷物を抱えて足早にレストランから出ていった。あとには汗をかいて空になったグラスが二つ、早百合の前にただ鎮座していた。しばらく呆けたような表情で、虚空を眺めていた早百合だが、三時を知らせるチャイムが鳴ると、ふと我に返った。
「……一杯食わされた」
   話をすりかえられ、お茶を濁されたと早百合がようやく気づいた時には、後の祭りだった。
   (いったいあの人は何を話していたんだ? 薬がどうとか……)
「新堂先輩を、臨床試験の実験台に?」
   口をついて出た言葉が、ストップしていた思考をフル回転させた。
   (新堂先輩を、企業も手を引いた劇薬の実験台にしていたなんて、なんて悪辣極まる行為! 先輩を好きな人がそんなことできるはずが無いわ、あの人はきっと先輩をいいように利用するだけ利用して、まるで中華まんの下についている紙のように月水金の燃えるゴミの日に捨てようと企んでいるんだわ、きっと)
   握りこぶしをぐっ、と固めて、その瞳に悪を憎む心の炎をたぎらせる。
   (先輩は騙されてる、いいえ、何か弱みを握られて反抗できないんだわ。もしかしたら反抗すると自動的に電流が流れる機械を、寝ている間に体に埋め込まれたのかもしれない。そうだとしたら、下手に攻撃の意思を見せると逆に先輩を人質に取られるわ、きっと)
   仮定形で想像を巡らす早百合の表情は、次第に自分の想像力に耐え切れなくなり、険しくなっていった。
   (こうなったら、先輩を救う方法は一つしかない)
「新堂先輩に真実を伝えなきゃ……」
   その決心は、早百合のたくましい想像力をも絶する、重大決心だった。
  
   ◆◇◆◇◆
  
   (最近になってやっといろはの制御の仕方が分かってきた。目の前に餌をぶら下げてやれば必ず食いつく。IQ183だか何だか知らないけど、結構単純なんだよな……)
   三時間にわたる実力テストを終え、悟はサッカー部の部室前で、スパイクの紐を直していた。これもいろはの息がかかった代物で、なんでも靴底に秘密があるとか無いとか。半年近く履きつづけて何も支障が無いどころか、逆にフットワークが軽くなった。こればかりは感謝しなくてはならない。
   昼を過ぎたあたりから、視力も次第に回復?し、今では何の支障も無い。一時的なものだったようだが、それにしてもいろははいつも想像もしないようなことをやってのける。この薬も、正式な実験結果が出れば学会でも胸を張れると言っていた。
   (そんないろはが、あんな幼稚な手に引っかかるんだろうか……?)
   ふとよぎった疑問が、悟に苦笑を漏らさせた。
   (そうだ、引っかかるわけが無い)
   苦笑が微笑みに変わるのを自覚しながら、悟はスパイクの感触を確かめる。大丈夫。
「し、し、新堂先輩……」
   突然、背後から響く地獄の亡者のような声に、悟は驚いて飛びのいた。そこには息を切らせ、全身汗だくの少女が苦しそうこちらを見ている。
「ま、マネージャー! どうしたんだ、一体?」
   その問いには答えようとはせず、サッカー部マネージャー、橘早百合は息を整えた。手の甲で額の汗玉をぬぐい、ふう、と一息つくと、悟を睨み付けた。
「新堂先輩、お話があります」
   そういってきびすを返した早百合は、足早に体育館のほうへ向かって歩き出した。悟も何がなんだか分からないまま、遅れないようについて行く。
   (この娘はいつも突然だ)
   悟は早百合の背中を見ながら、ある事を思い出していた。
   中学二年の冬。当時悟の所属するサッカー部内で、公認のカップルがいたのだが、ある日突然別れてしまった。彼女はマネージャーの一人だったのだが部活をやめ、彼氏の方も練習に参加しなくなった。周囲はあのおしどり夫婦がなぜ、と疑問に思っていたが、悟はその原因を知っていた。
   橘早百合。一年生のマネージャーだが、彼女はただ一人この交際を認めていなかったのだ。ある日悟を呼び出し、早百合はそのことを相談した。悟はその時、面倒くさかったのとあまり関わりたくないのとで曖昧な返事をしたのだが、早百合はそれを肯定と(勝手に)受け取ってとんでもない行動に出たのだ。
   その他にもある。その翌年、悟が三年生の梅雨。ある雨の日のこと。
   悟はその日、穴の空いた古い傘をさしてきていた。しばらく前から使っていた物で愛着があったのだが、悟はその日その傘を捨てる決心をする。
   バス停について何気なく傘をたたみ、ガードレールにかける。その時になって急に定期券の期限が気になり、確認しようとしているうちにバスが来てしまい、悟は慌ててそのバスに乗り込んだ。いつもの最後尾に座り、定期の期限を確認したところで始めて、傘を忘れたことに気がついた。
   ――しまった。
   そう思って振り返ると、さっきバス停にいた早百合が悟の傘を持ってこちらを見ていたのだ。悟がとっさに「それ、捨てちゃっていいからさ」と手振りで口の形で伝えると、早百合は分かったのか、うなずいてみせたので、悟は安心した。
   しかしそれから休日を挟んで三日後、何を思ったのか彼女はその傘を律義にも返しに来たので、悟は「新手の嫌がらせか?」と訝ったが、とりあえず受け取った。一応それを使ったかどうかの確認をしたのだが、その日からだ。
   なぜか早百合は悟について回るようになり、差し入などの部活での処遇がほかの部員と明らかに違ってきた。みんながスポーツドリンクの時に、悟だけ野菜ジュースだったり、みんなが手ぬぐいの時に悟だけ氷嚢だったり……と。
   今日の早百合の行動は、そんな過去の不安を思い起こさせる。
「先輩。すみません、呼び出したりなんかして」
   早百合は第二体育館の裏まできて歩を止め、振り返った。悟は意識を記憶の淵から目の前の状況に戻し、慌てて立ち止まった。早百合は何やら意を秘めた面持ちで、しかも胸の前で手を組んだりなんかしている。しばらく口元をもごもごさせていた早百合だが、意を決したのか、大きく息を吸ってから話し始めた。
「お話と言うのは、紫雨……先輩のことなんです」
「いろ……紫雨の?」
   突然出てきたいろはの名前に、悟は驚くと同時に嫌な予感を覚えた。
「先輩は、紫雨先輩と、付き合ってるんですか?」
   悟は動揺した。つい半刻ほど前に、いろはが同じ心境に陥ったことなど知らず、悟は慌てて二の句を探す。
「いや、何を突然……そんなこと」
   明らかに焦りの色を見せながら、悟は冷や汗が首筋に流れるのを感じた。それを知ってか知らずか、早百合の語調が強くなる。
「本人にも確かめました。先輩。正直に言ってください」
   (正直にと言っても……。いろはにも確かめたってどういうことだ?)
   悟は焦った。サッカーで自分がファールをおかしてPKになった時より焦った。
   (いろはの口から「付き合ってる」なんて言葉が出てくるはずは無い。この展開はきっと、彼女特有の、例のアレだ、きっと)
   しばらく頭の中で考えを整理し、反芻し、そして決めた。
「マネージャー、いや、早百合ちゃん。その前に言っておきたいことがある」
   今度は早百合が目を見開いた。
「もし早百合ちゃんが何かの勘違いをしているのかどうかは知らないけど、中学校のサッカー部の時みたいに、俺といろはに仲違いをさせるように計らっても、意味の無いことだよ。それに、いろはは人の話を鵜呑みにするようなやつじゃない。結果的に君の立場を悪くするだけだ。やめた方がいい」
   中学の時にサッカー部の公認カップルが別れたのは、どうやら由加里が双方に疑心暗鬼を植え付けたせいだ、というのが通説になっていた。別に彼氏を略奪しようというわけではなく、本人はあくまで「二人のため」という理由で、確信犯的に行ったのだ。
   言い終わって、悟はきりりと胸が痛んだ。古傷をつつくようなことはしたくなかったが、変な誤解でお互いの災難を招くよりは遥かにいい。
   早百合の立場が悪くなる、と言ったが、本当のところ彼女に変なことを吹き込まれたいろはが、世にも恐ろしい手を使って悟に災厄をもたらすのが、恐ろしくてしょうがない。ここで食い止めなければ被害は未曾有のものになってしまう。
   そう自分を納得させてから早百合を見ると、彼女は唖然とした表情のまま、固まっていた。
「……んな、そんな、そんな……」
「早百合ちゃん?」
   悟がその顔を覗き込むと、早百合はかぶりを振って声を荒げた。
「だって、だって先輩、実験台として毒を盛られたり、弱みを握られて脅されたり、挙げ句の果てに体内に爆弾を仕掛けられて反抗すらできないというのに、どうしてそこまでして、どうして……」
   語尾は言葉にならなかった。溢れ出す激情がまぶたからこぼれ、頬をつたい制服にしみをつくる。紅潮した顔をくしゃくしゃにして、早百合はその感情を吐き出した。
「どうしてそこまでして、紫雨さんをかばうんですか? だって、紫雨さんは、あなたのこと……」
   泣きじゃくりながら絞り出す声は、うまく言葉にならない。悟はそんな早百合ををどうすることもできない。だが、言わなくてはならない。
「知ってるよ」
   しゃくりあげる声が止まる。
「あいつが俺のことどう思ってるか、俺は知ってるつもりだよ。あいつが俺のことを聞かれてどういう風にごまかすかも。おおかた、専門用語並べられてはぐらかされたんだろ?」
   早百合は無言でうなずく。
「思い上がりかもしれないけど、そんな風にあいつのことを理解してやれるのは、俺しかいないんじゃないかって思うんだ。今俺があいつを突き放したり、逆に過保護にしても、あいつはあいつじゃなくなってしまう」
   早百合はうな垂れたまま、再び涙をこぼす。
「決めたんだよ。俺が『あいつ』を守ってやらなきゃ。『紫雨いろは』を護ってやらなきゃ、ってな」
   早百合はすでにしゃくりあげながら、両手で顔を覆っている。
「そのためには多少の代償は覚悟の上さ。生傷はたえないけどね」
   から笑いしてみせるが、早百合はすでにへたり込んでしまっていた。かける言葉が見つからず、悟は沈黙を甘受した。
   十数分が流れ、そろそろ泣き止むころかと踏んで、早百合の肩を叩こうとした。そのとき、
「あーら、お邪魔だったかしらねーぇ?」
   ドスのきいた甲高い声。そんな声が体育館裏に朗々と響き渡った。二人とも聞き覚えのある声。最大級の嫌な予感を抱えて悟が振り返った先には、腕を組んで仁王立ちになって、御霊高校の制服に身を包んだ背の小さい女子の姿。ちょうど逆光でシルエットしか見えないが、悟は嫌な予感が胸中で大爆発するのを確かに実感した。
「い……や、あの、これ……は、その、つ……まり」
「探したのよぉ、家にはいないし、サッカー部員に聞いても知らないって言うし……。たまたま体育館裏に行くところを見ていた人に教えてもらって来てみたら……、ふ〜ん……」
   思い切り険悪な表情で放たれたいろはの「ふ〜ん」は、凍てつく波動となって悟の全身を凍らせた。
「随分とお取り込み中なようですので、お邪魔虫は退散させていただきます。ど〜ぞ、ごゆっくり!」
   語尾の「り」を思い切り力んだ捨て台詞を残し、いろはは大股でその場を去っていった。悟は震えて、奥歯をカタカタならしながらその背を見つめている。早百合が何か言おうとして口を開いた時、悟が振り返って手を合わせた。
「ごめん、そういうわけで俺、あいつを追っかけるからさ」
   そういって乾いた笑みを早百合に見せてから、悟は慌てて走り去っていった。
   閑散とした体育館裏に春一番が入り込んで、砂埃を舞い上げる。ひとり取り残された早百合は、へたり込んだまま通りぬける風を身に受ける。しばらく呆けていた早百合だが、目に砂が入ってようやく正気を取り戻した。
   ――なん、なのよ……。
   早百合の口からぼそっと声が漏れる。
「どうして、私の言いたいこと、伝わらないのかなぁ……」
   その言葉を口にした瞬間、何かが胸に込み上げる。こらえきれず指でまぶたを抑えるが、その感情の波は止めどなく溢れ出してきた。
「目にゴミ、入っちゃった……」
   言い訳を独りごちたが、それを責めるものは誰もいない。
   ――好きなのに……な……。
   心に芽生えた感情が、こんなにも痛いものだとはじめて知り、早百合は苦笑したが、それもまた涙の奥に消えていく。
   ――ホントに私、ついてないや……。
   戸惑いと激情の涙は、春一番でもかき消せない。
  
   ◆◇◆◇◆
  
「待てったら、勘違いだよ」
   校門を出ようとするいろはの背に、悟の声がぶつかって跳ね返る。走り出したものの、体力の無いいろははすぐに悟に追いつかれ、その腕をつかまれてようやく止まった。
「放してよ! あの子はどうしたのよ」
   汗を浮かべて息を切らせたいろはに睨まれると、悟は再び呆れた様子で嘆息した。
「あのさあ、だから誤解なんだってば」
   悟の言い分も、いろはは疑惑の眼差しで返す。
「だったら、その誤解が解けるように説明しなさいよ」
   (はなから信じる気の無いやつに何言っても無駄だってぱ……)
   胸中でそう思いながらも、悟は事の次第をはじめから説明してみせた。
「……つまり、あの子は何かとそういう事に首を突っ込みたがる、困った性格なんだよ。俺はむしろ被害者なんだ」
   いろはは悟の目から一瞬たりとも視線を外さずに話を聞いていた。呼吸も整って、汗も引いている。悟が話し終えると、いろははその視線をいっそう険しくして、まくしたてた。
「あんた、本当にそう思ってるの? あの子がどうしてそんなことをするのか、まったく見当がつかないの? これっぽっちも?」
   いろはの責め立てるような口調に、悟は当惑しながら口だけを動かす。声にならない言い訳は、いろはには届かない。
   いろはは呆れ返った様子で肩をすくめ、きびすを返した。
「あんたに惚れる人って、ついてないわよね……」
   囁いた独り言は風にかき消され、悟の耳に届かない。
   悟が訳も分からずいろはの背を追いかけようとしたその時、その背がぐらりと揺れた。
「いろはっ?」
   均衡を失い、重力に支配されるままに倒れかけた体を、悟はすんでのところで受け止めた。安堵の息を漏らしながら、いろはの顔を見る。
「大丈夫……。ちょっと、めまいがしただけ……。脳震盪かも」
「脳震盪だって? 大丈夫なもんか、あのまま倒れてたら大変な……」
   いろはが突然、悟の唇に人差し指で触れたので、悟はそれ以上口がきけなくなってしまった。
「何も言わなくていいの」
   そう言われて、悟はあいている手でぽりぽりと頬をかいた。
   しばらく悟の腕に身をあずけたまま、いろはは満足そうに唇の端で笑ってみせた。
   ――訂正。ついてなくなんか、ないじゃない……。
   悟が視線のやり場に困ってあたりを見回していると、すぐ側に赤い布製の腕輪が落ちているのに気がついて、それを指で拾い上げた。
「あっ、それは……」
   いろはがそれを取り返そうと手をあげるが、その手も宙をさまようだけで腕輪には届かない。悟はそれをいろはの手に渡す。
「これ、タリスマンっていって、願い事を叶えてくれるって……。ばかみたい。そんなわけ、ないじゃないの……」
   誰に言うでもなく、いろははその腕輪を目の高さで見つめた。
「私は要らないわ、あんたにあげる。他力本願なあんたにはちょうどいいでしょう?」
   そういっていろはは悟の指先にその腕輪を渡した。悟がその時のいろはの表情を見ようとしたら、ぷいとそっぽを向かれてしまった。
「ありがたく、もらっておくよ」
   その赤と白の刺繍が施された編み込みの腕輪をしげしげと見つめて、悟はふと今朝のことを思い出していた。
   ――ついてないってわけでも、ないみたいだ……。
   悟の漏らした言葉も、いろはの息遣いも、春の風が吹き流してゆく。
  
   ◆◇◆◇◆
  
   放課後、職員室はその机のほとんどに教師らがつき、職員会議が開かれていた。操子は教頭から見て後方にいるので、隠れて大あくびをかいていた。
「では、定例職員会議を終わります。佐伯先生、よろしくお願いします」
   教頭は何やら意味ありげな苦笑を浮かべ、周囲の同僚も何やら複雑そうな顔をしている。操子は一瞬、自分の大あくびが見られていたのではと思ったが、どうやらそうではないらしかった。
「佐伯先生もついてないですね、ラテン語同好会の顧問なんて」
   同じ一年生を受け持つ若手の体育教師が、やはり苦笑を浮かべながらこちらを見る。
「心中、お察し申し上げます」
   来年定年の数学教師も、哀れむような視線でちらりとこちらを見て、職員室から出ていった。
   ――一体どうしたのかしら……?
   怪訝そうな面持ちで部員の名簿を開いた時、操子はすべてを察した。
「私の頭上にはきっと不幸の女神でもいるのね……」
   いや、もしかしたら自分自身がその女神なのかもしれないと、操子は胸の前で十字を切った。
  
   『部員 ……一名
   二年F組 紫雨いろは[部長]』
  
「やっぱりついてないわ……」
   操子が脱力して見やった窓の外では、風で桜吹雪が舞っている。
   空は高く、雲は白い。……春だ。
  
   今日から、新学期が始まる。
  
  
   ――憂鬱はそこはかとなく おわり
  

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