江良 賢宣(えら かたのぶ) ?〜1569
通称 興綱 弾正
居城 野上撒骨山城(のがみさんこつざんじょう)
江良房栄の兄、吉見氏の抑えとして指月萩尾城(しづきはぎお)を築城し、六日市沢田に江良屋敷を作り住んだ、その後1545年に竹内弘時に城が渡され、本領の鹿野へ戻り野上撒骨山城の城主として活躍、1550年に安芸の廿日市桜尾城の城番に陶晴賢から命ぜられるも1554年には毛利軍に桜尾城が攻められ落城、1557年には須々万沼城に山崎興盛の援軍として防戦するも敗戦、自城の鹿野町へ退却する時に娘を討ち取られた、永禄年間(1558〜69年)に元主君の陶晴賢を祭る六日市・龍福寺を開いた、鹿野・徳地下が吉見領へ入ってからはと鹿野・龍雲寺で暮らしていたが毛利軍に入り九州の立花山城合戦において戦死した。