波多野 秀信(はたの ひでのぶ) ?〜1569.12.16  

通称  孫左衛門
居城  嘉年勝山城(かねかつやまじょう)
   


妻は吉見範弘の娘、津和野合戦では陶軍の進軍を留める為に父・滋信と共に守っていた武将、嘉年勝山城の合戦では断腸の覚悟で手勢、約200人を率い陶晴賢軍に切り込み178人を討ち取った、直、秀信は生き残るも波多野軍約200人の兵はほぼ殲滅しこの地に千人塚なる石塚が残っている、津和野合戦の出鼻を挫く猛戦に正頼は感激し感状を与えた、まさに背水の陣で戦ったのである、敗走した秀信は下瀬頼定と共に津和野三本松城へ入城する、その後1556年3月15日には吉見正頼が嘉年勝山城を奪回し城主として治まる。

波多野氏の菩提寺、龍昌寺

嘉年波多野氏
初代 波多野経清 ・・ 15代 波多野滋信 16代 波多野秀信

嫡男 波多野秀重 ・・・ 末裔 広沢真臣
次男 波多野滋清

  

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