波多野 滋信(はたの しげのぶ) ?〜1554.3.3  

通称  内蔵介
居城  嘉年勝山城(かねかつやまじょう)
   


妻は吉見隆頼の娘、津和野合戦では真っ先に集中砲火を食らい、大軍に攻められ陶軍の先方隊を弓でなぎ倒し吉見範弘と共に弘中隆兼の軍に攻撃し防衛するも家臣・田中次郎兵衛の内応によって敗北、息子の詳細を最後まで気に掛かりながらも城へ放火し磁信は腹を十文字に切り裂き首を切りつけ炎の中へ付して自害した、3月3日に落城。

嘉年波多野氏
初代 波多野経清 ・・ 15代 波多野滋信 16代 波多野秀信

嫡男 波多野秀重 ・・・ 末裔 広沢真臣
次男 波多野滋清

波多野 滋信の墓、若宮様の墓として伝えられている。  波多野 滋信 画像

益田大斬りへ戻ります。