老兵玉砕、その思いと終焉・・尼子 久幸  戻ります。

別名で義勝とも名乗る。
自分の進言が晴久に受け入れられず、挙句の果てには「臆病野州」と言われた久幸は一体どのような思いであったろうか?
だいたいの書物から見て1470年前後の生まれと推測すると今年で71歳前後、若き至りの晴久に自分の身を吉田へ埋め、己の愚かさを分からせるしかないと心へ刻んだようである。
出陣の際、兄・経久の部屋に行き「兄上、今宵での対面はこれが最後かも知れませぬ、兄上の病状も良くなく、拙者も安芸にて討ち死にを覚悟してます、お互い老兵ならば、この命果てても悔いありません、しかし兄上が築き上げた功業も晴久公の代になれば全て無くなるやも知れません・・」全て察していた経久は無言で頷き、久幸は涙を溜めながら経久の両手を握ると戦場に赴いたと言う。
1541年1月13日、尼子久幸らが早期突撃を晴久らに申告したがこれを晴久が聞かなかった為、尼子軍にまとまりがなく、大内援軍が来ると尼子兵はこぞって敗走をし晴久は窮地に立たされ退却。
晴久を救う為、経久の直臣、三沢為幸は戦死し、尼子久幸が手勢500人を率い緋縅(ひおどし)の鎧を身に纏い赤鉢巻を巻き晴久軍の殿(しんがり)を務め久幸は敵方の陶追走軍3000人と激突、敵軍勢を半キロ後退させる捨て身の突撃で久幸は味方の軍を叱咤激怒し敵兵470人あまりを道連れに玉砕し、最後は陶軍の焦りを見て掛け付けた毛利軍・中原善右衛門が弓矢を放ち久幸の眉はずれに命中し討ち取られた、その後、久幸の遺体は尼子軍が吉田郡山に置き忘れた為、吉田町西浦に葬られた。  
これは尼子軍が死に物狂いで逃走した証拠であり、陶軍の中腹で亡くなった久幸の遺体を持ち帰るのはもはや不可能に近い状況であったと思われる、この久幸の行動で助かった晴久は肝に命じ、家臣の元服の際には尼子代々の「久」の字と共に尼子久幸の「幸」の字も配布している、有名な山中鹿介の本命、山中幸盛の「幸」もその字である、また久幸の讒言を肝に命じたはずだったが・・性格は変えられず、後年、似たような失敗をしている、そう「新宮党事件」である。

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