京・船岡山の合戦 (1511年8月〜8月23日)

合戦人数

総大将

大内義興(足利義植) 2万5千人 VS 1万6千人 総大将 細川澄元(足利義澄)

1507年11月26日 前将軍・足利義植を奉じ大内義興は軍を進めた、
その軍勢は約15万〜20万人で(あまりにも強大な軍勢で書物によっては様々で詳細は絞り込めない)大内義興の大内軍2万5000人を筆頭に凄まじい大軍で上京した。
(大内軍・・大内義興・陶興房・間田弘胤・内藤興盛・弘中武長・飯田興家・右田氏・野田氏・安富氏・杉氏・仁保氏・神代氏・江口氏 総勢2万5000) 1508年6月8日に京へ入る。
九州諸将 島津貴久・大友義長・龍造寺家兼・高橋統種・菊地重治・伊藤義祐・有馬貫純・阿蘇惟前・宗像重春・松浦興信・原田隆種・秋月氏・筑紫義成・星野親忠・麻生之重・千葉胤盛・宗築義成
石見国人 吉見成頼・益田宗兼・高橋清元・三隅興信・福屋国兼・小笠原長隆・周布和兼
安芸国人 武田元繁・毛利興元・吉川基経・宍戸元源・平賀隆宗・小早川敬平・天野興次・熊谷元直・香川吉景
出雲国人 尼子経久(大名)・三沢為幸・三刀屋左衛門
備後国人 宮秀景・三吉隆景・山内直道・山名(杉原)豊重・木梨通経・栖崎豊景
伯耆国人 南条守親・小島清忠
因幡国人 山名豊重(大名)
但馬国人 山名政豊
美作国人 三浦貞久・芦田友興・市宗忠・玉串昭之
備中国人 庄為資・三村宗親・清水氏・石川左衛門・福井孫六
備前国人 浦上則守(大名)
播磨国人 別所氏・黒田高政
伊予国人 河野通直・因島村上氏・能島村上掃部助
讃岐国人 香川元光
大内義興の「号令」でここまでの軍団が備後・鞆で合流し一致団結、上京したのは西日本としてはこの1回だけであり、西国の武将の凄まじさが伝わってくる、後世の関ケ原合戦など比べる価値も見出せないほどの大軍である、様々の書物でも際立つのは京での遊女が沢山集まり軍勢の慰労したとする物が目立つ、ここでは齢84歳になる吉川基経も従軍して加わっている。

戦国通の方なら見覚えのある名前もチラホラ伺えるだろう、また吉川基経は90才になるまで合戦に趣いた侍で、子供達や孫・曾孫達に「爺の合戦にたいする情熱は人間の物とは思えない」とグチまで言われている猛将だ、さしずめ「俎吉川」(まないた・きっかわ)と呼ばれた武士で、若かりし尼子経久とも合戦をしている(経久は合戦で経基と戦うのを嫌がり娘を貰い婚姻関係になった)

大内軍の戦略
約4年に及ぶ合戦で、軍勢は帰還したり、分散した。
大きな総力戦はなく敵と小競り合いをし京に陣取っていた。
8月 細川澄元・赤松義村の奇襲によって大敗を喫し、丹波へ逃れる。
8月23日 反撃の機会を伺っていた、大内連合軍は陶興房の先陣が細川連合軍に流れ込み、完膚なきまでに叩き潰す、敵兵3480人を葬る凄まじい戦。

ここで面白い伝えがある、反撃に対して第一軍を巡る言い争いがあった、そこで大内義興に
尼子経久(当時54歳)が「わしに先陣を任して頂ければ生きえし者、全て葬りさってごらんにいれよう」と進言した、これに陶興房(当時31歳前後)が「尼子殿に任せれば味方の兵も葬る勢い、しかも大内軍は奇襲は苦手でな、ここはわしの戦を見て、情けないと思われれば尼子殿が敵兵を根こそぎ断って頂ければこれ幸いです」と上手くかわし義興に進言し、義興は第一軍を陶軍に任せた。

 実に面白いやり取りがあった模様、戦は一番槍が最も勲章が多かったので名のある武士は勝てる戦では挙って一番隊を申し出たのである、この話しを聞いた吉川基経(当時84歳)は「わしも後、三十若ければ進言しておっただろう」と言って笑ったらしい、どこまで本当か分からないが言い争いがあったのは事実らしい。

 この事が関係していたかどうか分からないが、尼子経久はこの合戦が終わると早々と帰国している。(敵方の六角定頼に説得され帰った模様。)

細川軍の戦略
約11万前後いた兵が分散。
優勢な大内軍を警戒し一旦、近江へ逃れる。
8月 播磨へ降り、白旗城主・赤松義村と組み、1万6000の軍で大内義興の隙を突き、京を攻め取る。
8月23日 凄まじい勢いで攻めてくる、大内連合軍の前に敗北、細川政賢は戦死、死者3480人を出す、壊滅的な敗北を喫した。

この少し前に細川澄元が担ぎ上げた、前将軍・足利義澄は近江岡山城で死亡し、士気が低迷していたのが少なからず影響したのではと思われる。

京都・本能寺


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(京都の本能寺)

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