三隅高城(みすみたかじょう) 益田氏の氏族が分かれて築いた城だが土地柄上、益田氏とは仲違いし独立している、戦国期は早くから尼子氏に通じれたのは先祖の石見守護・三隅兼連が整備した周りの6城と共に強固な防衛網を誇っていた為、大内勢力の強い西石見で孤立していても問題はなかった、1551年に益田藤兼が三隅隆兼を攻略した時も総力を傾けても落城しそうもなかった為、謀略を用意て傘下に納めている、また吉川元春に謀反を起こした三隅隆繁は周布一族と協力し悪五郎(三隅国定)の謀略で尼子・大内残党と協同線を張れば石見一国ぐらいは支配できると踏んだのだろうが吉川元春に城の八合目付近に「陣張り」をされ、短期決戦で城を攻略されたのは予想外だったに違いない。
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