三隅 国定(みすみ くにただ) ?〜1570年   


隆兼の四男、通称・悪五郎、父の態度に納得できず、度々父・隆兼へ反抗した為、勘当されて諸国を放浪し尼子勝久や大内輝弘などと手を組み暗躍する、福屋隆兼に謀叛後の斡旋を進め更には周布氏にも周布元兼の従兄・周布晴氏に謀叛の手筈を整えさせるなど智将ぶりを発揮した、毛利氏にとって(特に小早川隆影は)山中鹿介と並んで三隅国定の事を非常に憤慨の思いがあった、1570年・春、毛利軍が動く前に浜田の那賀星城(ながほしのじょう)・鷹巣城(たかのすじょう)を落とす、しかし援軍に来た繁沢元氏(元春の次男)によって撃退され、最後は吉川元春の騎馬突撃を食らいそのまま戦死した、益田軍は居城・三隅高城を攻略した。

三隅氏
14代 三隅隆兼 長男 (早死)
15代・次男 三隅隆繁
三男 三隅隆信
四男 三隅国定

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