三隅 隆兼(みすみ たかかね) 1510前後〜1562年 享年 53前後  


14代当主、1524年、福屋正兼と決戦する、1538年には益田尹兼と闘い、1539年には石見へ侵略して来た尼子晴久と手を組むが大敗した、1540年8月に周布武兼の本拠地に近い周布井野村へ尼子晴久が攻めてきたがこの時は大内方へ組した為、西石(せきせい)の豪族は一致団結しこの尼子軍を撃退した、三隅隆兼の家臣・三浦兼実は尼子軍へ切り込み苅紬口において快勝し尼子軍の士気を大きく削ぎ三隅軍の武勇を轟かした、1548年、父・興兼が逃走した為当主へなる、隆兼は陶晴賢が気に食わなかったらしく、反陶派との噂が流れていた、その後益田藤兼の猛攻を抑える事ができず1551年10月益田家傘下へ治まる、1552年には藤兼の計らいで隠居した、以後は益田氏の支族などに兵力や家臣を貸したりして盟主・益田藤兼の力となり、友好関係を維持した、1562年3月8日に亡くなる。

三隅氏
本家四代 益田兼高 五代 益田兼李
三隅初代 三隅兼信 ・・・・ 四代・名将 三隅兼連

・・・・ 12代 三隅興信 13代 三隅興兼 14代 三隅隆兼 長男 三角忠兼
15代・次男 三隅隆繁

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