異母弟、相合元綱の謀反を見抜く・・毛利 元就

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1524年4月、家督は元就へ継がれたものの、相合元綱は一物の疑念があったようでしかも尼子の重臣、亀井秀綱が元綱を唆し毛利家家臣の坂広秀・渡辺勝(わたなべすぐる)も組した為、相合元綱は序々に元就と離れ謀反を起こす準備をしていた、そこで元就は先手必勝、間者から確実な情報を得ると船山城を襲撃し相合元綱を討ち取り、さらに日下津城へ刺客を放ち坂広秀、一族を滅殺しさらに長見山城・渡辺勝も討ち取り、元綱一派を滅殺した、亀井秀綱より毛利元就の方が調略にかんしては何枚も上手であった、この策略に経久は関係してなく亀井単独で行ったと思われる。
経久は毛利元就を相当、買っていた為、本格的に関わっていなかったらしい、亀井のこの軽率な失敗がのちのち尼子家滅亡の足がかりとなる、現に元就の事を「自分と同じ匂いのする策士よ」と評価しどうにか傘下に治めたい武将だったのである。)
これは元就が行った始めての滅殺であり、毛利家の基盤を確実な物にする上で避けては通れない道だった、そしてこの事を教訓に自分の子供には嫡男以外の男子は他家へ養子へ出させるのである。「元綱がたぶかされなければこのような事をしなくてすんだのに」とこの事を肝に命じ、元綱の嫡子・元範は敷名元範(しきなもとのり)と名乗り備後江田城主として取りたてられる、このことで元就は経久を生涯警戒した。

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