向横田頚ヶ滝城(むかいよこたくびがたきじょう)

向横田頚ヶ滝城・本丸

城の築城理由と改名の歴史
通称・向横田城、1185年、源頼朝の命令により美濃郡に領地のあった石川頼恒が築城したのが始まりで平家の残党の逃走防止の為の城として当初は築かれた石見最古の城、当初は向横田首寄旁城(むかいよこたくびきのじょう)と名づけられていたが城主が領家公恒に替わると向横田片木城(むかいよこたかたぎじょう)と変わり、応仁の乱以降、城市正雄(じょういちまさたか)に城主が変わると向横田頚ヶ滝(むかいよこたくびがたきじょう)と名前が変わっている、歴史の古い城だけに、様々な名前へ変わったいった城跡をみるとその歴史が分かるようだ。
名前 向横田頚ヶ滝城
(むかいよこたくびがたきじょう)
標高 90m

(ふもとから)
70m
登山時間 5分
登山距離 200m
城郭
登山角度 安定
設備 頂上に休憩所有り 八合目まで車で登れる
感想 気軽に登山できます。
場所 島根県益田市向横田町
信長の野望 城市正雄の城 登場せず(−−−)
向横田頚ヶ滝城・井戸 (下の石垣)私の祖父が向横田頚ヶ滝城の二の段と井戸を保有している、我が家の領地内にあるのである、先祖に感謝したい。ちなみに本丸は市の指定文化財へなっている。
向横田城の城主の動向
この城は城主が1185年・石川頼恒に始まり後に石川一族が安富へ移ると
1222年に領家公恒が支配し子孫の領家恒那(りょうけつねとも)が
1354年に津和野の吉見頼行に圧迫され、城から撤退し、吉見一族の横田頼拳(よこたよりたか)が一時この領地を支配したが、主家に反逆して滅亡、その間、領家氏では内乱を乗り越え再び城は五代目・領家恒正(領家公恒の孫)が奪回したがまたも内乱が起こり七代目・領家恒仲(領家恒正の弟)が争いに勝ち、
1367年5月には豊田二本松城(別名・横田城)を攻め(軍勢130人)傘下に治めると領家氏最全期を迎える(石高:約2万70石)その後、領家氏は吉見氏に圧迫されて益田氏から吉見氏へ鞍替えしていたが
1471年、大内教幸の乱で吉見信頼を攻めるべく11月7日に北上して来た益田貞兼に横田二本松城・安富小倉城は攻略され、11月15日には向横田城も攻略された、城主・領家仲尭は虫追大嶽城(むそうおおたきじょう)へ撤退、益田軍へ降伏して傘下へ治まる、そして新しく城主になったのが城市正雄(じょういちまさたか・勘助)である、その後の城主はハッキリしない、1577年には領地が毛利氏へ献上され向横田頚ヶ滝城の392年の歴史に終止符が打たれた。

城市正雄には子供が居なかったので向横田城は廃城へなったか、一時は撤退していた領家定行が益田氏から譲り受けていたのかも知れない、ちなみに現在、向横田城の駐車場になっている所は応仁の乱の時(1471年)、攻めてきた益田貞兼が本陣を敷いた場所であり約2000人もの大軍が城を囲み、領家仲尭の200人の向横田城を約1週間(7月8日〜7月15日)で攻略した要の場所である。(1997年の石見城郭調べで新たに分かった。)

向横田頚ヶ滝城の経緯

城の謎と疑問
領家氏の居城・向横田片木城は石川氏が築いた最初の場所とは少し異なるようで詳細に調べれば支城などは被るが本丸は別の場所にあったらしい、この理解を整理すると石川氏→城市氏へ直接、城主は変わった模様だが、石川一族は安富へ移っているので結局は領家氏が支配していたと見ていいと思う、応仁の乱以降は領家一族は本城が代々「虫追大嶽城(むそうおおたけ)」(横田頼拳が築城)になっているようなので、向横田地方にも本貫地があった模様である。

なにせ豪族のさらに下の家臣なので全ての資料において一致する物はない