10月17日、・・・・ある意味自分の生涯でもっともタフな一日が始まろうとしていた、今日の旅は前々から練っていた強行プランの一つで「島根・益田から一日でどこまで行けるか?」と言う限界を見るべく旅になった、もちろん朝(夜?)は早い、3時には身支度をして四国まで最低で4時間は掛かると踏んでいた自分達は、朝4時に益田を出発、そして5時30分、いつもの広島・戸河内インターへ着く、そして中国自動車道→広島自動車道→山陽自動車道と乗り換え、広島・尾道に着いたのが7時、休憩所で少し休むとそこから「しまなみ街道」をひたすら南下する、四国の今治(いまばり)に着いたのが午前8時、さすがに平均速度130キロで高速道路を走っていたのが幸い?したのか、予定通りに四国へ着く、そこからさらに南下して松山へ着いた、自分は江戸時代の飾りの城へはまったく興味がない為、あくまで愛媛と言えば「道後湯築城」へ決まっている!と周りを納得させ、いざ道後温泉の横にある「道後湯築城」へ、到着したのが9時と少々時間を食ってしまった、予想以上に道後松山の街は都会で「河野氏は戦国期には石見・益田氏とそう変わらないのに・・」と自分の所の殿様が居なくなって寂れた、自分の所の町と殿様が居てそのまま発展していった街を比べるとはっきりした差が分かった、なんとなくセンチメンタルになっている自分は気持ちを切り替え、道後湯築城へ城内は今年、本格的に発掘されたらしく、これだけ整備しているのに館内は「全て無料」と言うのに驚いた!館内には湯築城の歴史紹介もあり(ちょっと戦国が短い・・(^^;))様々な発掘された物が展示してあった、一昔はここが動物園であったらしく発展して行ってこの地が荒らされると言う事がなかった為、いろいろな歴史的な物が残っていたのだと言う、自分は家族が湯築城の案内人に捕まっている所をスルってすり抜けて道後湯築城へ登る、そして11時に道後を出発、途中12時頃に「コスモス畑」に行き、何千万本のコスモスを見ると、13時に大島の「能島村上水軍資料館」に行く、そして村上武吉の衣を見ると、14時に瀬戸内大三島の大山祗神社に着くと、そこの奉納館に行くと・・拝観料1000円も納得です・・・・凄まじいお宝が続々と・・超超有名所で源頼朝・源義経・巴御前と物凄い、目の色(@_@)が変わるぐらいの薙刀が並びます、さらに戦国武将では地元大名・河野通直、そして周防の大内義隆(「オォー」と驚く)そして山中幸盛(「えっ鹿介・・何時行ったんだろう」と疑問?)、因みに河野通直は刀剣には矢じりを受けたような痕・・そして山中幸盛(鹿介)の刀剣は物凄い刃こぼれをしてました、たぶん大分、人を切っている剣なのでしょう・・・当然の事ながら、お館様(義隆)の剣は刃こぼれ一つありませんでした(^^;)そして、日本に現在する唯一の戦国女武将の鎧、大祝鶴の鎧がありました、なんとなくですが、大内家の大将を討ち取っている女性なのでそれなりに大柄(150センチぐらいか?当時の男性平均160センチ)なのでしょうか、よくあんな重い鎧を着けていたのだなぁ、と思いました、そして大三島にある「せとうち茶屋」と言うお店で昼食をとりました、15時頃に「シトラスパーク瀬戸田」で柑橘類を堪能し、17時過ぎに広島・尾道へ帰るとラーメン好きなTaikiは「尾道ラーメンは必須!」という事で尾道ラーメンを食べると自宅へレッツゴーで帰りました、家に着いたのが22時過ぎ・・・当然の事ながら次の日は疲れきって・・一日動けませんでした・・・・マラソンで10キロ走る方が楽だったと思います・・・・走破距離は一日で700キロを超えさらには城跡へ登るとなると・・・さすがに疲れでバク睡しても目の下のクマは一週間ぐらいとれませんでした・・・・。 |