考慮短き性分、興久の謀反・・塩冶興久  戻ります。 

1532年、塩冶興久は原手郡の地(出雲平野)700貫(3500石)を加増して欲しいと父、経久に申告するも、備後の地1000貫(5000石)なら良いと返事をされ、興久はこの返事を家臣、亀井秀綱の讒言と思い込み、手討ちにしようとした為、経久は秀綱をかくまった。
その為、激怒した興久は家臣・今岡弥五郎に尼子反旗を命令し今岡700人は反旗を翻し経久は75歳と言う老齢ながら自ら7000人を率い今岡一味を倒す。
その後、興久は月山富田城を700人ばかりで包囲するものの、城は大きくまともに攻撃も加えられないまま経久の弟・久幸と新宮党の国久・誠久(さねひさ)親子が経久の援軍として7000人を率い興久軍を攻めたので興久軍は壊滅、その後、備後に逃走、2年後に自害する、享年38歳。
この戦いで兄弟の亀井秀綱と亀井利綱は両方に分かれて戦う運命となる、利綱はこの無謀な謀反を経久へ報告したが「自分は興久殿の家臣なので興久軍として戦う、凡将な大将を持ったのは不運であったが主君は裏切れない」とし玉砕覚悟で経久軍へ突っ込み戦死するのである、戦国の世とは言えこの律儀な態度に兄・秀綱は涙は弟に恥ずかしくて流さなかったと言う。

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