下瀬 頼郷(しもせ よりさと) 1496〜1585.12.03  享年  90歳

通称  弥五郎 弥六左衛門 右衛門 三郎 興種 丹後守 加賀守
    吉見 脇本(わいもと)
居城  日原下瀬山城(にちはらしもせやまじょう)  脇本屋敷(わいもとやしき)


様々な名を使い敵を錯乱させた策将、なんと敵方の益田氏の資料にも警戒するようと書かれている、1527年〜1538年の間吉見氏を名乗り大内家の奉公人を務める、頼郷の代には脇本(わいもと)地方まで勢力が及び完全に支配下へ収める、そこで地元の地頭への考慮し脇本屋敷では名字を脇本(わいもと)と名乗る、「天文の役・第一次津和野合戦」では先陣を嫡男・頼定に任せ自分は策を張り巡らす、日原下瀬山城を強化し城郭に民が収納できる作りにし津和野三本松城との間に間道を整備、長期戦に耐えうる食料を確保した、表向きの合戦では益田軍に包囲されるも主だった攻撃を受ける事はなく防衛、溜まりかねた益田兼任の書状では「津和野三本松城は落城するのは時間の問題」と書かれてあるも、主君・正頼は既に津和野三本松城には居なく、5月1日に下瀬山城へ間道を使い移動していた、蛻(もぬけ)の殻の津和野城へ陶軍を三ヶ月も釘付けにすると言う策士振りを発揮、津和野三本松城に待機していた息子・頼定に「策書が出回っている為に信じないよう」と言う文を送り結束を固める(3月26日付け)、更に青原小瀬大嶽城・板垣甲斐への書状も頼郷へ筒抜けしこの内応文書を逆利用し頼郷家臣・水津新左衛門を益田方へ偽りの内応をさせ、益田軍が「高鉢山」を支配すると益田軍に勤め先陣で吉見軍を攻めていた水津新左衛門を吉見方へ寝返らせ、益田軍の指揮は幻滅、陶軍は頼郷の罠に陥った、しかし頼郷の思いの他、毛利軍の援軍の主体が来なかったのと陶軍がなかなか総攻撃をして来なかった事が吉見軍の武器不足に陥り和睦を結ぶ事となる、この戦いの後は自分の老年を理由に嫡子・頼定の影として過した。

下瀬氏が普段住んでいた脇本(わいもと)  脇本屋敷(わいもとやしき)屋敷とは思えないほど山の頂上部分にある、監視の役目もしていたのか。

下瀬氏
本家 吉見頼行 2代 吉見頼直
下瀬・初代 下瀬頼右 2代 下瀬頼勝 3代 脇本頼綱

頼郷はどうような心境で日原を見ていたのだろう

4代 下瀬頼豊 5代 下瀬頼重 6代 下瀬頼郷 7代 下瀬頼定
次男 下瀬頼金 頼金の子 下瀬頼宣

8代 下瀬頼直
次男 下瀬市進
三男 下瀬頼盛

石見一の策士
 頼郷は様々な名前を使っていかにも吉見家には有能な人物が沢山いるように見せかけた武将である、一人で何役もする万能な武将であった、大内家の奉行人となった時も大内義興や大内義隆の性格を分析し未来の吉見家の為に様々な工作を企てている、しかし大内義隆の全盛期(出雲敗戦の前)しか見てなかったのでその後、一変した義隆の態度を分析する事は出来なかったのだろう、また陶晴賢がどのような気性をしているかもよく理解していたようだ。

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