下瀬 頼定(しもせ よりただ) 1531〜1614.8.16  享年  84歳

通称  弥五郎  弥六左衛門  加賀守
居城  日原下瀬山城(にちはらしもせやまじょう)
  


吉見氏家老、弓の名手で1551年10月5日に益田藤兼に鹿谷(しのたに)能登呂に陣を構えていた益田藤兼軍の水手・食料隊を壊滅させ撃退し正頼から感状を貰う、1553年10月12日に陶軍の先陣を勤めた町野隆風の軍を高左原(現むつみ村)で弓隊を率い戦い軍功をあげ正頼より感状を貰う、同年11月13日に陶軍の乃美賢勝・久芳賢重と戦い股と膝に三箇所も弓矢を受けながらも敵を撃退、更に津和野防衛戦では嘉年勝山城へ城主・波多野滋信と共に篭城し、1554年3月の嘉年勝山城の合戦では命からがら津和野城へ戻り、正頼が日原下瀬山城へ移った後も上領頼兼と共に殿隊(しんがりたい)として津和野城を防戦、8月2日付けで陶軍に打って出て弓でかなりの兵を射殺したとして正頼より感状を貰う、1582年に主君・広頼に従い備中高松へ参戦、関ヶ原の戦いの後、吉見氏は萩へ移るも頼定だけは直も下瀬に残り日原脇本を独自に支配した、江戸時代に日原が天領になったのは頼定が日原銅山を整備したからに他ならない、津和野藩主・坂崎直盛が態々下瀬領を敬遠して石見路を通らず黒谷から大回りし津和野に登る事態が発生したので1613年に毛利家臣・桂元次より「下瀬を退去して欲しい」と言われるも無視し新・津和野藩の指図を受けなかった。

下瀬氏
本家 吉見頼行 2代 吉見頼直
下瀬・初代 下瀬頼右 2代 下瀬頼勝 3代 脇本頼綱

下瀬頼定の墓への案内板  下瀬 頼定の逆業墓、意外と脇本の麓にある。

4代 下瀬頼豊 5代 下瀬頼重 6代 下瀬頼郷 7代 下瀬頼定
次男 下瀬頼金 頼金の子 下瀬頼宣

鹿谷能登呂古戦場、この地で潜伏していた益田藤兼に一泡吹かせた。

8代 下瀬頼直
次男 下瀬市進
三男 下瀬頼盛

日原のかたくわ者(かたくわもん)
 「かたくわ」とは西石見の方言で「頑固者」と言う意味である、頼定は非常に気性が激しく、たまたま青原の船渡し場で川船から川に用を足している女を見たとき、見苦しいとして船底に弓矢を放ち船頭を慌てさせたと言うエピソードもあり、その地は船に矢が折れて刺さっていた為「矢折」(やおれ)と言う地名になっている、また関ヶ原合戦(1600年)の後に主家・吉見広頼は萩に移るものの自分は高齢を理由に下瀬脇本(しもせわいもと)に残り日原銅山を支配し坂崎直盛を日原に近づけさせなかった、まったく主家の言う事も聞かず突っぱねた事から戦国のかたくわ者として有名である。

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