品川 勝盛(しながわ かつもり) 1544〜1565.9.20 享年 22歳

通称  大膳 狼之介 勝森 将員 三郎兵衛
居城  久城普月城(くしろふげつじょう)


通称・品川大膳、別名・品川狼之介(しながわろうのすけ)または、木狼之介勝盛(たらぎおおかみのすけかつもり)・勝森とも呼ばれていた益田藤兼の侍大将、1544年に品川員永(しながわかずなが)の子として生まれる。
 久城普月城(くしろふげつじょう)の城主で持ち場「城角」(じょうかく)にて屋敷を構えて住む、弓の名手として有名で逸話では猪の突進を身体で受けとめ首を捻じ切ったとか、大膳が元服してからは「石見の狼に出雲の虎」と民衆で噂されるほど品川大膳と山中幸盛(鹿介)は猛将として話題になった
 ほぼ同期の幸盛に激しく敵対意識の強かった、大膳は益田藤兼の軍の切り込み隊長として出雲・広瀬川の中州で「わしは石見の狼、品川大膳である、勝負せよ」と幸盛(鹿介)軍に一矢、飛ばし挑発すると幸盛(鹿介)も「出雲の虎の力を見せて進ぜよう」と豪語し、二人は一騎打ちになった 
 そこで弓の名手、大膳は馬を飛ばしてくる幸盛(鹿介)を狙い弓を引こうとしたが、尼子方の十勇士・秋上伊織助(久家)が「一騎打ちに飛び道具とは卑怯なり」と大音声で叫んだので大膳は弓を捨て、二人は組みあいになり、縺れて幸盛(鹿介)が下になった時、大膳が幸盛(鹿介)の膝を切りつけると同時に素早く幸盛(鹿介)が短刀を大膳のワキ腹あたりに刺した為、勝負ありと見るや、秋上伊織助(久家)が大膳の首を刀で討ち落とした 
 その後、幸盛は「出雲の鹿が石見の狼、打ち取ったなり」と大音声で勝ち鬨を上げ尼子軍の士気は上昇し、益田軍は慌てふためき500の兵が突撃したものの秋上久家と山中幸盛の軍勢に撃退され益田軍は一時壊滅したが、一時に過ぎなかった、そして大膳は敵の地、出雲で最後を遂げた、時に西暦、1565年9日20日である、法名は「椿岩宗寿居士」。

 大膳の祖父は安芸・武田元繁の家臣・品川信定で1517年10月に多治比元就(毛利元就)に敗れた後も1540年、武田信実と共に大内軍と戦い戦死した、品川信定の子で大膳の父・品川員永は流浪の末、1544年益田藤兼の家臣・品川将員(勝盛の親戚)に招かれ元安芸武田氏の重臣の家柄から久城領を与えられる、そしてこの地で生まれたのが品川大膳である、大膳は益田藤兼の事を兄と思うぐらいに慕っていたと言う忠臣で、藤兼も可愛がったと言う、これ以後、代々品川家は嫡子が狼之助を名乗る事となる、因みに勝盛が一騎打ちで使用した太刀は小原へ移住した子孫が代々管理している。

(97年 NHK大河ドラマ・毛利元就に登場  配役 林 那史朗 58)

(様々な異説が3つあるが、一番真実に近い物を纏めてみた、また今回の調べで品川家の墓石文字を発掘し大膳が鹿介より一つ年上だと記述してある、ちなみに親戚・息子と自分とで三人も将員を名乗っていて、かなりややっこしい、さらに城角屋敷跡は益田新道路の為、消滅した。)

 
品川 勝盛の墓                  久城普月城

          案内板                    鎮魂碑
 
         

所在地・・・島根県能義郡広瀬町
詳 細・・・近くに駐車場がないので合銀の駐車場に止めて徒歩8分

品川氏
初代・安芸武田家臣 品川将清 二代 品川員清 三代 品川将中 四代 品川信定
品川氏
五代 品川信友 六代 品川員永 石見の狼 品川勝盛 嫡子 品川勝貞

参考文書・・「益田市誌」「美都町史」「尼子氏系の書類」

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