謀反の実態・・陶 晴賢         戻ります。  

出雲遠征で完膚なきまでに地獄へ叩き落とされた大内義隆は政治・軍略を蔑ろにするようになる、陶晴賢を始めに内藤興盛・冷泉隆豊と言う側近までも讒言をして忠告したが義隆は無視、さらに内政を悪化するような公家を呼ぶ為に「増税」や民衆に能などを学ばせようとした事には内外部から批判の声が上がっていた、実際、謀叛の約2年前から陶晴賢逆心と言う噂は山口全都へ広がっており、陶晴賢も「自分へ兵を向けるようならお館様はまだ望みはある」と思っていた模様、それほど義隆は文弱の徒へと変貌してしまい、陶晴賢は「このままでは大内家が潰れる」と危惧しても義隆は一向に意見を聞こうとしない、もはや家臣の8割は主君・義隆へ三行半をしていた、そして遂に予想通りなんとも珍しい、起こるして起こった謀叛なのである、もう少し早く自分の足場に気付くべきだった義隆は宿老・内藤興盛にまで見捨てられてしまっていた、現実を見なくなった義隆を放っておくほど戦国の世は甘くなかった。

大内義隆が1551年8月29日、陶晴賢の奇襲を受けた状況から説明しましょう。
 謀反のキッカケを作ったのは青景隆著(あおかげたかあきら)の戯言を陶晴賢が信じ、積もり積もっていた感情が爆発し遂には直臣の江良房栄らと共に3000名の陶軍を率い富田若山城(とんだわかやまじょう)を出発、義隆が篭る築山館に来襲した、義隆も覚悟はしていたようである、仲の良い相良武任(さがらたけとう)は事前に筑前に逃走し山口には居ない(家族は石見・周布領に逃走)義隆も側近の冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)と共に10000名もの大軍で応戦するものの、その内2000名は陶軍に寝返り、まともに指揮も取れないままに大内軍は敗北、6000人の兵で法泉寺に乗り込むも兵の逃走は歯止めがかからず3000名にまで減っていた、さらに兵が相次ぎ逃亡し采配が取れなくなり、周防から長門に逃れた時の兵は僅かに60人、仙崎(長門市)から海上に出て義隆の姉が嫁いでいる、津和野三本松城・吉見正頼を求め石見に逃れようとしたが海上が暴風の為、移動を諦め長門・太寧寺(たいねんじ)に戻り自害するのである。
 (義隆が生き延びるには津和野逃亡以外に道はなかった、義隆方の冷泉隆豊や岡部隆景などは戦う前から敗北を確信しており主君に自害するよう勧めている、しかも内藤興盛も自害するようにと文を送っている)

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