出雲遠征で完膚なきまでに地獄へ叩き落とされた大内義隆は政治・軍略を蔑ろにするようになる、陶晴賢を始めに内藤興盛・冷泉隆豊と言う側近までも讒言をして忠告したが義隆は無視、さらに内政を悪化するような公家を呼ぶ為に「増税」や民衆に能などを学ばせようとした事には内外部から批判の声が上がっていた、実際、謀叛の約2年前から陶晴賢逆心と言う噂は山口全都へ広がっており、陶晴賢も「自分へ兵を向けるようならお館様はまだ望みはある」と思っていた模様、それほど義隆は文弱の徒へと変貌してしまい、陶晴賢は「このままでは大内家が潰れる」と危惧しても義隆は一向に意見を聞こうとしない、もはや家臣の8割は主君・義隆へ三行半をしていた、そして遂に予想通りなんとも珍しい、起こるして起こった謀叛なのである、もう少し早く自分の足場に気付くべきだった義隆は宿老・内藤興盛にまで見捨てられてしまっていた、現実を見なくなった義隆を放っておくほど戦国の世は甘くなかった。 |
大内義隆が1551年8月29日、陶晴賢の奇襲を受けた状況から説明しましょう。 |
壁紙の著作権はMinさんにあります、無断で転用・複写・複製するのは禁止です。