周布一族の墓前・・もしかしたら周布元兼の墓かも知れない・・・周布元兼 ?〜1578年 

(すふもとかね)

墓 所 島根県浜田市周布
詳 細 聖徳寺の裏へ1分、ヒッソリと佇んでいる。

戻ります。(周布一族の墓前と伝わる。情報を調べるうちにこの場所一体に周布家の墓前があったらしいのだが、周布一族が毛利輝元と共に山口へ移る時に、暴徒によって破壊されたり、山沿いと言う事ながら山崩れなどがあり三つしか周布一族の墓前は確認できない。(聖徳寺のお坊さん談)

14代当主、1548年12月14日に父・武兼から家督を相続、1551年9月6日に本家・益田藤兼に従い大内義長の傘下へ入る、同9月16日に都野長保と争い益田藤兼へ仲裁を仰いだ、1558年2月27日には吉川元春1万2000人の一部隊として周布元兼は小笠原長雄(おがさわらながたか)を攻めている、1561年には吉川軍へ属し大友氏と戦う、1570年・春に元兼が出雲遠征へ行っている最中に周布家を従兄・晴氏に乗っ取られた、その後は晴氏が吉川軍へ討たれ、周布鳶巣城は廃城へなるものの、自分は謀叛へ関わっていなかったので吉川傘下へ治まる、1574年には主家・益田元祥と共に足利義昭の信長体罰へ従って義昭と会見した、1578年、吉川軍として尼子残党が立て篭もる上月城を攻撃した時に戦死した。
(信長の野望・蒼天禄にて石見国人として登場)
周布氏
本家五代 益田兼李 六代 益田兼時
初代 益田兼定 二代 益田兼政 周布へ改名 周布時兼 ・・・・

貿易で富を築く 周布和兼 11代 周布元兼 12代 周布興兼 13代 周布武兼 14代 周布元兼 15代 周布元城
従兄 周布晴氏

参考資料・・「石見益田人名風土記」「古城の譜」「周布氏と貿易」

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