竹内 弘時(たけうち ひろとき) ?〜1579.8.13  享年  ?歳

通称  豊後守
居城  指月萩尾城(しづきはぎおじょう)


家老、妻は吉見頼興の娘、正頼とは義兄弟、1545年2月に六日市野中で洪水が起こり荒れ果てた地を再開発しその功としては指月萩尾城を吉見正頼より任された、1554年の六日市一掃戦で江良軍を野戦で迎え撃つが敗北し篭城でも江良房栄に城を落とされ、自害したとされていたが実は密かに生き延び、正頼の家臣として転戦し1579年8月13日広浦にて戦死した、麓の指月神社には弘時が祭られている、因みに萩・指月城はこの城から名前を貰ったと言う。

指月萩尾城(しづきはぎおじょう)徹底交戦した竹内一族はどんな思いでいるのか・・  弘時が祭られている指月神社。

竹内氏
本家 吉見直頼 4代 吉見弘頼
竹内・初代 竹内直信 2代 竹内頼勝 3代 竹内頼次
次男 村上定勝

竹内 弘時の墓、地元では忘れられていた・・悲しいが時代の流れなのだろうか・・

4代 竹内弘時 嫡男 竹内頼時 ・・・
次男 竹内元正
村上定邦 村上定次 ・・・

激戦、激戦!
 竹内弘時は吉見正頼からこの城を任される時はどんな思いがよぎっただろうか・・少なくとも手放しで喜んだとは言い難い、それはこの城には1543年まで江良賢宣(陶家臣)が支配していたからである、それが出雲・月山富田城の合戦で吉見一族が活躍した事によって元々大内氏の吉見領の抑えである沢田が完全に吉見氏に渡ったのである、しかし因縁の陶方の城を吉見氏に渡るなど陶晴賢も苦虫を噛み潰した事は容易に分かる、そうである・・吉見氏と陶氏が戦う時はこの指月城が真っ先に攻められるのはもはや決まっていたのである、江良房栄が六日市に向かった時、弘時と頼時・元正兄弟は山口県境から500mほど下がった場所に陣張りをする、決死の覚悟で自ら退路を断っている、この城が落ちる時、竹内一族の存命が分からなくなるほどの激戦だったのだろうか・・。

 因みに地元の「吉賀記」「防長風土注進案」では自害したとする言い伝えが多い中、竹内・村上氏系図「村上氏 指月遺譜」には生き延び出雲などに転戦した文献が残っている、たぶん広浦で討ち死にした史実が何時のまにやら言い伝えで城で自害した話しに摩り替わったのだろう・・歴史とはそんな美化する物である。

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