問田 隆盛(といだ たかもり) ?〜1555年 


大内家臣、問田氏は1460年に問田弘綱が大内政弘から「石見守護」を任され代々継いでいた、1520年初頭になると東石見へ尼子経久が猛攻をしかけ悉く傘下へ治めたので大内氏と尼子氏の境がある石見は最前線になった
 このとき「もし大内傘下の武士が尼子傘下の武士を攻撃する時は必ず御館様から許可状を貰わなくては戦はしてはならん」と言う文も残っていて非常に緊迫した雰囲気が伝わる
 また度々尼子方へ寝返る三隅興兼を見張る為、問田氏が石見へ下るときは三隅高城を住城とした、通常は山口に居た為、石見で反乱が起こったとしても大豪族の益田氏・吉見氏がこの戦いを仲裁していて問田氏の勢力は石見国内では皆無に近かったようだ、戦国時代へ突入する頃には名ばかりの物となっていた
 1540年の書状に問田澄盛の名が見える、1550年前後の文からは問田隆盛の文字も見られる弘綱の孫が隆盛だろう、陶反乱の後は大内義長に仕えるが不和となり自害する、石見守護職の一族。

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問田 隆盛

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