月山富田城の略奪・・尼子 経久    戻ります。   

1485年 10月、経久は密かに旧臣、山中勝重に月山富田城奪回を打ち明け懇願した、その折、この追放後2年間の苦痛や苦しみ恨みと言う「負」の感情を爆発させその心の奥に秘めた思いは並々ならない物だったと言う、その作戦や心境を聞いた勝重は納得し加勢する。密かに旧臣を集め、芸人の蜂屋賀麻党も多大な恩賞を約束し自らの間者的役割に抜擢した
1486年 追放され月山富田城の奪取に燃える経久は、1月まず富田城の恒例の年明けの祭り、千秋万歳に目を付け、懇願の末、味方に引き入れた蜂屋賀麻党70人ばかりは、早朝、新年を祝う舞いを踊り衣装の下には武装し富田城内に入り、
 城門を巧みに塞ぎ、搦手からは火事騒ぎを起こし混乱に乗じて大晦日から城内に潜んでいた尼子経久・山中勝重の軍勢17人、そして密かに集めた旧臣・亀井氏・馬木氏などを筆頭に56人が城に乱入し城主、塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)を筆頭に450人あまりの敵兵を滅殺、月山富田城を完全支配する。  
詳細

この戦いの詳しい記述は残されてないが、何でも早朝、夜が明ける前に城内に入った蜂屋賀麻党と共に月山富田城で経久は暴れまわり人と言う人を区別せず切り捨て、そして討ち取った首を広瀬川の河原に並べて晒首(さらしくび)にしたと言う、この後、経久は鬼と呼ばれ周りの豪族から恐れられた。
 この事で不思議な事に敵対して守護職にあった、京極政経は月山富田城に居たと言う、説もあるがその後も生きている、詳細に調べて見ると、政経は月山富田城ではなく、近くの寺に住んでいたと言う説が有力で当時の貴族となると長期滞在する時、城ではなく位の高い寺等に住む事が常識のようだ、もはや完全に経久の手に落ちた月山富田城を見た政経は「これ以上、経久に逆らえば消される」と危惧したに違いない、後年自分が死ぬ時に嫡子の事を経久に任せているが、嫡子は経久に葬られる。

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