出雲では名門で有名な豪族、三沢氏を倒すべく三沢為忠に決戦を挑む。 これを経久は真正面から戦をしかければ尼子軍にも多大な損失を被ると悟った、そこで経久は家臣の山中勝重をワザと追放し三沢方に忍びこませる、勝重の母方も牢にぶち込み周りにも見つけしだい捕らえて月山富田城に連れてまいれ、などとワザと厳しく怒ったフリをし、山中勝重は三沢為忠に経久のウソの戯言を述べ、二年もの間、三沢に尽力を尽くした。 |
約2年後、ころあいを分かり山中勝重は「母を愚弄した経久を許さん」とし、三沢為忠に直訴、経久を攻め月山富田城を落とすと言うと、三沢為忠が承諾し本隊の七手組500人を山中勝重が煽動し月山富田城の近く中壟(なかおか)まで来ると勝重は城内の内応者に連絡を取ると言い城内に行き軍から離れ、それを合図に尼子軍の伏兵1000人が左右から出没し三沢軍に切りかかる、虚を突かれた三沢軍は壊滅、約200人は討ち死に約300人は逃走したが無事、三沢城に逃げ帰れた者は100余名ばかりだと言う、経久は三沢本軍が壊滅したのを見ると風のように素早く三沢為忠を攻め、攻略している。 |
この戦は経久の気の長い知略が成功した例であり誰にも思いつかない、二年もの歳月を掛けた調略に付き合った山中勝重も大変であったと思われる、それだけにもし失敗してたら出雲制圧に時間が掛かっただろうし、失敗すれば山中勝重を逃げてくるように打ち合わせていたらしいが、詳しい書物がないだけにここも詳細は分からない。 |
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