鬼神が残した冥土の土産・・尼子 経久

   もどります。

吉田郡山の合戦(1541年)で晴久は大敗退した、その後、大内氏の逆襲は必須でありその備えとして智将・経久は大内軍へ生涯最大の諜略をしかける。

其の壱 大内陣営に投降する武将に混じって尼子の武将も投降させる。
 (ここので諜略はそれほど行なわず、国人単位に任せていた模様、沢山手を回しすぎると大内家臣に悟られるのを警戒したと言う逸話もある。)
其の弐 さらに出雲遠征を長期化させ兵の気力を失わせる為、経久は所々の神社や寺に参拝させるよう明星寺の僧から大内義隆に伝える
 
(義隆は元々、公家文化を好みこれが経久の計略とは気づかずこの申し出を喜んで承諾する。)
其の参 大内連合軍が月山富田城に総攻撃を掛ける時、牛尾幸清・宇山久兼の合図で、攻めるふりをして一斉に先陣隊が月山富田城に逃げ込み「筒抜け」、尼子軍と合流し動揺の走る大内軍を一気に叩く。
 (この経久の調略を周将に伝えたのは明星寺の僧が頃合を計り伝えたと言われる
明星寺の僧と宇山・牛尾らの宿将がこの諜略に関わっていたのはたしかであり、その手際の良さ、諜略戦をもち掛けたのは経久の遺言だと言う説が有力、それほど絶妙かつ効果的に罠は発動した。
 その説が有力な証は晴久にはこれほどの諜略戦を使う頭はなく、祖父・大叔父にその器を見下されている為だと思われる、しかも他の諜略戦は行なっていなく、晴久は真正面からの策しか使えなかったようだ、その為、晴久の評価は低いのもしかたがない、経久の死亡時期が尼子直系以外の資料にも明確に載っているのは死亡日が早々と諸国に漏れた証であり、もし策を練っていなければ、秘密事項を簡単に諸国へ漏らす訳はなく、隠し通していたと思われる(現に尼子晴久が死亡した時は山へ葬る等、隠す事に必死である)、その為、「経久死亡!」の早報は大内義隆を「煽動」していると毛利元就は読んでいたが陶晴賢がこの元就・冷泉隆豊の案を無視した為、出兵し破れたのである。
1542年1月11日出発 1542年6月7日〜1543年2月13日
あまりにも経久の死が諸国に伝わるのが早いと疑いの念を持った元就であったが時の勢いには勝てずこの戦に参加、尼子経久の遺策は見事に決まり、約13ヶ月間のらりくらり防戦をする尼子軍、ついに大内傘下の石見・出雲・安芸州十三部隊の内、実に七部隊(吉川興経・三沢為清・三刀屋久扶・本城常光・山内隆通・出羽正助・宮氏)が同時に大内を裏切った(約1万人)、大内直轄軍15000人は大混乱の末、壊滅。
敗北殿軍(しんがりぐん)を任された、小早川・毛利軍は小早川正平の戦死、元就は生涯最大の危機に陥り、毛利軍では渡辺通(わたなべかよう)が元就の影武者となり討ち死、元就は辛うじて安芸に帰陣した。(これが有名な元就7騎落ち)
経久は自分の死をも策略に用いた稀代の智将だったのである。
経久が亡くなったのち、この鬼神の代わりになる人物はいなくカリスマを失った尼子家は魅力がなくなりいままでの緩い支配体制が逆に災いを及ぼすのである。
 (経久を頼っていた様々な食客もいなくなり、有名な「鉢屋賀麻党」も去っていった模様)  
晩年、経久に可愛がられていた曾孫の義久の代に尼子家は滅亡することとなる。
その後の尼子軍
 もちろん勢いに乗る尼子軍は石見の佐波興連を攻めたり、伯耆〜因幡へ進軍し所領を広げた。

その後の大内軍
 それとは反対に、この敗戦で養嗣子・晴持が溺死し、戦に恐怖を覚えた大内義隆は以後、政治を蔑ろにし文弱の徒へ没落して行って陶晴賢へ討たれてしまう。
 また毛利家でも元就の側近、渡辺通が死ぬなどショックは大きかったが以後、元就はその後「諜略、浅き者は死ぬ」を実体験し次々と計略をする「策将」へとなった。

経久と元就の智将の器。
 お互いその能力を認め合う仲で、元就は実質、経久を手本としてその土台を作ったと言っても過言ではない、そこで二人共、策士なので「諜略」を主体としたが経久は「自分自信が相手に向って語る」タイプなので経久の行動力はズバ抜けていて「神出鬼没」とも言われた、また元就は戦国時代に電話がなくて良かったと言うぐらいの手紙好きで、ご存知「お手紙おじさん」である、そしてもちろん相手に伝えれば少なからずそこから情報が漏れて知られたくない相手に伝わる事がある、それを防止する為にとった二人の鬼才は・・
 経久は「相手に直接対面して伝える事で相手の心理を読み、威圧感で牛耳る、そして裏切ればどうなるかと知らしめた、しかも自分が向えばこれ以上確実な物はないと考え、心理術に長けていた武将、この手で三島水軍を言葉で縛り付ける事に成功(手紙などでは紛失や盗難に遭う確率もある)」
 元就は「相手に手紙を送り、読んだら手紙を返せと書いて送っている」属に言う「往復手紙」だ、手紙を返させる事によって情報が漏れるのを防ぎ相手が承諾したと分かるのである(相手が承諾しないと手紙は帰ってこないし手紙が届いてなければもちろん帰ってくる事もない)、実に見事な考えだ、これなら間者が手紙を盗む事も少ない、二人共このようにして諜略の放出を防いだのである、二人共、証拠を残さなければ第3者には伝わり難いと考えたのだ。(直、経久の諜略に関する文が少ないのもこの為だと思われる。)

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