山吹城(やまぶきじょう)
名前 | 山吹城(やまぶきじょう) |
標高 | 414m |
麓(ふもとから) | 240m |
登山時間 | 1時間 |
登山距離 | 1キロ |
城郭 | 小 |
登山角度 | メチャクチャ急〜石段地獄 |
設備 | 階段グラグラ 本丸は草、茫々 途中休憩所2ヶ所 |
感想 | 夏は登るのは避けましょう・・・。 |
場所 | 島根県大田市大森町 |
信長の野望 | 石見銀山の城として有名(天翔記 覇王伝 嵐世紀 蒼天禄にて) |
戦国武将の大内義隆から数えて6代前の大内弘幸(ひろゆき)が石見銀山の防衛の為に築城した山城。
はっきり言って、石見の中でもけして大きい方ではないのですが、もう本当、登ってみてください・・・部活動の足腰鍛錬や登山愛好家の人が登るレベルです・・・凄まじく長く、そして急な階段が登山400mぐらいからあります、その階段が物凄く急で・・そして不揃いで力いっぱい踏むと階段が・・・剥げます、興味がある人は登ってみてください、しかし興味本位で登ると痛い目にあいます。(注:責任はとりません。)頂上まで登ると「立て札」と「史跡塊」があります、ここを掛け上がった吉川元春には脱帽です・・、年間登る人は一桁ぐらいでしょう。 壁紙の著作権はsyaraさんにあります、無断で転用・複写・複製するのは禁止です。 |
1309年 | 大内弘幸が石見銀山を発見する。(当時はまだ発掘方法が未熟な為、たいした量は取れなかった) |
1526年 | 博多の豪商が石見銀山を本格的に発掘し「石見銀山」の名は日本全国に知れ渡る。 |
1528年 | 大内義隆は山吹城の隣の山に矢滝城を築城し銀山支配をいっそう強化する。 |
1531年 | 2月 石見豪族・小笠原長隆が矢滝城主・祖式元勝を降し石見銀山を支配する。 |
1533年 | 8月 大内義隆は銀山奪回に成功、今度は山吹城主に飯田興秀を置き支配強化に勤める。 |
1537年 | 8月 尼子晴久が山吹城を奪取する。 |
1539年 | 5月 大内義隆は銀山奪回に再び成功した。 |
1541年 | 9月3日 石見豪族・小笠原長隆は山吹城を猛攻するが落城せず。 |
1543年 | 7月3日 尼子晴久が山吹城を落とし小笠原長雄(ながたか)と同時管理する条件に小笠原氏が尼子傘下へ納まる、城主には小笠原長隆の四男・刺賀長信(さっかながのぶ)が入る。 |
1556年 | 3月 吉川元春が山吹城を攻略し、刺賀長信は吉川傘下へ入る。 |
1558年 | 7月 尼子晴久が2万3000の兵を率い山吹城援軍に来た宍戸隆家・児玉就忠7000を諸共粉砕し(忍原崩れの合戦)勢いに乗って山吹城を落とし銀山を乗っ取る、城主・刺賀長信は自害。 元々尼子方の刺賀長信(小笠原氏)を自害に追い込むと言う、少々、尼子晴久の冷徹面が分かる一面である、本家の小笠原氏も翌年には吉川傘下へ治まる。 |
1562年 | 尼子方の山吹城・本城常光に毛利元就は猛攻を加えるが落城せず。 |
1562年 | 尼子方の山吹城・本城常光は毛利元就に諜略され山吹城は毛利方となる。 |
1583年 | 毛利家が豊臣傘下の大名となると豊臣氏との合同管理となる。 |
1600年 | 毛利氏が関ケ原で敗北すると徳川直轄領となる。 |
1602年 | 石見銀山の生産が最大値年間、15トンにも及ぶ。 |
1923年 | 石見銀山は休山となる。 |