吉賀 頼貞(よしが よりさだ) ?〜?  

通称  想左衛門 弥二郎
居城  
   


1554年3月の嘉年勝山の合戦では津和野援軍として嘉年に駆けつけ西井坂に篭る町野隆治の軍と戦うが敗走し嘉年八幡宮に息子と共に立てこもるが息子・弥六は討死する、1556年の黒谷合戦では益田方の喜島宗勝に捕まる、後に毛利軍(吉見隊)に入り1562年1月5日に門司合戦において活躍し正頼から感状を貰う、1564年7月22日、因幡鹿野合戦(毛利軍VS尼子・山名連合軍)にて戦功を挙げ、一条東市介・土屋七郎左衛門らと共に感状を賜った、、1580年には阿武郡高佐郷など10石を吉見広頼から賜る。

嘉年八幡宮(かねはちまんぐう)陶方・町野隆風に追われ、この八幡宮に逃げ込んだ。

正頼の憎めない側近
 けして有能とは言えない頼貞だが、正頼は頼貞を側近として身近な指示や命令を託した、これには意味があり、正頼は裏表がなく誠実な人柄の頼貞に安心して肝心な事を命令している、武将としては失敗が多い武将だが、気質が高い正頼には好かれていたようだ。

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