吉見 広長(よしみ ひろなが) 1580〜1618.8.25 享年 39歳

通称  広行 長次郎 大蔵大輔
居城  津和野三本松城(つわのさんぼんまつじょう)


広頼の次男、兄・元頼の死で1594年に家督を相続、第二次朝鮮出兵では毛利秀元の軍に入り活躍、しかし1598年に秀吉の遺訓として毛利輝元が毛利秀元へ長門一国を預けた為、広長は納得いかず出奔、直ぐに捕まり広島にて監禁されるも父・広頼と叔母・矢野子の計らいでまた吉見家を相続する事となる、そして毛利軍として関ヶ原に参陣したが何故か毛利秀元の軍に入らず吉川広家の軍に参加するのである、この様な身勝手を毛利輝元が許す事はなく責められ、石高の減る割合に憤慨し、また1604年には出奔し遂に吉見家の本領は絶える、その後江戸へ行き徳川家康に仕えようとするも輝元の許可がない事で断られ次は肥後・熊本城の細川忠興を頼るもまたも許可状がない為に断られ加賀の前田氏の元にも向かったと言う、1613年には父の死を知り、吉見家の隠居地に越して住むも、1618年8月25日には輝元を宴の席に招待する手筈を整えていたが毒殺疑惑が持ち上がり弁解もせず何故か囲まれた毛利兵に打って出て戦い最後は自害した、戦上手の短気者と言う後世の評価を覆す事はないだろう。

吉見広長の花押(吉見広長の花押)萩川島にある善福寺、基本的には江戸末期の勇士達の墓所が多い。

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

吉見広長の墓、夫婦墓が静かに佇む、土地柄参拝者も多いだろう。

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

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