吉見 広頼(よしみ ひろより) 1541〜1613.6.20  享年 73歳

通称  亀王丸 三河守 舸撤(かてつ)
居城  津和野三本松城(つわのさんぼんまつじょう)


正頼の嫡男、1554年に陶氏の人質となる、1563年に豊後に初陣、本田(豊前守)氏を討ち取る、長女の矢野子は伊予大名・河野通直に嫁ぐ、九州征伐では小早川軍に入り最前線で戦う、1590年の北条征伐では500兵で小田原に乗り込み「水軍」を動かしていた、1599年には隠居していたが広長の出奔によって59歳でまた家督を握る事となる、この時の石高は吉賀郡(柿木・六日市)7325石・阿武郡(矢富・嘉年)7940石・阿東184石で15250石とある、しかし本領の鹿足郡(津和野・日原)が含まれてないのでそれを含めると当時で約3万5000石ぐらいか?、晩年の吉見氏は正頼期の領地の3分の1と繁栄に影が射している、晩年は不遇な生活が続き主君・輝元より米100石の寄進を受ける身となっていた、吉見家の未来を案じ1612年には吉川家から養子を貰い1459石の隠居地をその養嗣子・吉見就頼に継がす事にした、1613年6月20日に亡くなる。

吉見 広頼の墓  吉見広頼の花押(吉見広頼の花押)

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

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