吉見 信頼(よしみ のぶより) ?〜1482.5.27  

通称  三郎 能登守
居城  津和野三本松城(つわのさんぼんまつじょう)


正頼の叔父、戦好者であり大内政弘と上京したおり足利義政にも一目置かれる存在であった、吉見家最前期をもたらした武将、その所領は周防の徳地まで伸び陶弘護の領地まで侵食して来たので陶氏と敵対するようになる、更に厚東氏の領地にも侵略し勝利を収める、この地に下岡吉見城も有る、1469年に大内政弘の家臣・末武氏久・末武延忠・末武幸氏を地服(じふく)で戦って討ち取る、1471年に「大内教幸反乱」では城郭を改修し、この年、益田貞兼と陶弘護の挟撃にあい、吉見領は約半分近くまで攻め取られる事となる、この事で陶一族へ恨みは増幅し1475年には「徳佐元山城」を攻撃するも陶弘護の反撃に合い敗北、1478年には益田貞兼らと共に陶弘護の軍に入り豊前・筑前を平定、そのおり陶弘護に「城郭を直すのは野心があるためだ」と皆の前で恥をかかされた事もあった、1482年には「山口館事件」で宿敵・陶弘護を刺し内藤弘矩に討ち取られ死ぬ、死ぬ覚悟は決めており、「吉見百年の繁栄の為には弘護を刺し殺すしかない」と言ったと言う、身辺を整理し家督を弟・頼興に譲っていた。

徳佐元山城の正面 徳佐元山城の裏手

(徳佐元山城、信頼が1471年に陶弘護に奪われたこの城は1543年に正頼が大内義隆から授かるまでの72年間は大内方の城として常に吉見家を威圧し続けたようである、後の津和野合戦では大内義長の大軍(約8000)がこの周辺に滞在し徳佐を征服した後に津和野三本松城を包囲するのである。)

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

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