吉見 隆宗(よしみ たかむね) ?〜?  

通称  善慶 右馬助 越後守
居城  五反畠蕣城(ごたんばたけあさがおのじょう)
   


頼員の子、上小川東の地頭、1554年3月の津和野合戦で落城した後は出家し蕣城の付近に正福寺を立てたが廃寺となったので、1574年に河野兼貞が復興し住職となり今は合併等して尊正寺として佇む、吉見頼員・隆宗の菩提寺である、出家した後はまったく姿を暗ましているが後に隆宗の名で重臣として署名している、分家で弟の北谷頼一の存在と文からも父・頼員と共に討ち死にした事になっているが、どうやら生き延び浴俗して武将として父・頼員の家臣として陰ながら支えていった、1581年には父と共に重臣として署名した文もある。

尊正寺は隆宗の意思を引き継ぎ、小川吉見家の菩提寺でもある  後ろに見える山が蕣城で向かって右手前が尊正寺

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

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