吉見 隆頼(よしみ たかより) 1500〜1540.10.16 享年 41歳
通称 三河守 三郎
居城 津和野三本松城(つわのさんぼんまつじょう)
頼興の次男、妻は大内大宮(大内義隆の姉)、1532年に須川岩倉八幡宮を勧精する、1533年の横田頼助宛て(吉見越後)の文書での陶氏の動きを警戒しいつも徳山方面に情報網を敷いていた、1538年に津和野に「祇園会」を復活させる、徳佐文珠山の恵光寺の開祖で現在は合併などして恵長寺となっている、娘が四人居た事が分かる、どちらかと言うと文化人であったようだ、山口へ向かう途中に先祖の地・津和野木曽へ立ち寄り先祖の源御社へ詣でている、その後に向かう山口で滞在中、山賊に殺されている、永太院に葬られ分骨は恵長寺にもされる。
兄・高津氏の祖 | 吉見成世 | ||||||||||
7代 | 吉見成頼 | → | 8代 | 吉見信頼 | |||||||
次男・石塔ヶ原 | 吉見宗頼 | → | 次男・9代 | 吉見頼興 | → | 長男 | 吉見成興 | ||||
三男・大野原 | 吉見弘景 | → | 枕瀬 | 岸田頼貞 | → | 次男・10代 | 吉見隆頼 | ||||
→ | 広石 | 吉見成廉 | → | 三男・坊主 | 伝法寺威俊 | ||||||
→ | 朝倉 | 吉見頼安 | → | 四男・坊主 | 東光院周信 | ||||||
→ | 五男・11代 | 吉見正頼 | → | ||||||||
→ | 六男・家老 | 吉見頼盛 | |||||||||
→ | 七男・矢 富 | 吉見頼員 | → | ||||||||
→ | 八男・指 月 | 吉見頼実 | → | ||||||||
→ | 九男 | 吉見範弘 | |||||||||
→ | 落胤・大 井 | 伊藤頼俊 |
→ | 12代・嫡男 | 吉見広頼 | → | 13代 | 吉見元頼 | |
→ | 次男・14代 | 吉見広長 | ||||
頼員の子 | 吉見隆宗 | → | 長女 | 吉見矢野子 | ||
→ | 吉川広家の三男、養子・15代 | 吉見就頼 | ||||
頼実の子 | 吉見頼重 |
隆頼の謎 吉見隆頼に纏わる逸話は非常に錯乱しており自分も史料を分析するのに非常に苦戦をようした、信頼から続く第二の「陶刺殺事件」刺し違えた陶方にそのような文書がまったくない事と架空の人物・陶光長(光良)(興房の三男)が陶方の刺し違えた武将として出ている事が致命的な間違えであり誤りである、更に隆頼は14〜5歳と言う幼年で死去したとの説は兄・成興(享年17歳)との間違いである、死去にしても文書として残っている物とは異なり意図的に後世の人間が情報操作しようとした痕がある(娘三人説や大宮姫の件など)死亡期日にしても1539〜1540年も物があり非常に困惑した、さらに「陰徳太平記」には陶道麒(興房)と刺し違えたとある、このように偽造されている事は明確でこの事から正規の吉見家系図が必ずしも正しいとは言えない状況である。 |