吉見 頼員(よしみ よりかず) ?〜?  享年  ?歳 

通称  阿波守 安房守
居城  平山星城(ひらやまほしのじょう)
   


上小川西の地頭、主・正頼の弟、1552年7月11日の大内義長の書状で須佐郷は益田藤兼に渡ってしまうすると隣接する矢富郷を守る頼員と須佐郷を任された益田兼貴との間に緊張が走る、しかも1553年10月に主君・頼正が大内離反を宣言すると1554年3月頼員は強固な平山星城を防衛するが町野隆風の蝶略にはまり城は落とされてしまう、この時、頼員軍は小平ヶ原(こひらがはら)で町野隆風の軍と応戦しこの地に千人塚なる供養石が三基祭られている、敗走兵は落山・城ヶ谷へ行き一萬村で殲滅します、しかし3年後には上領頼兼が城を奪回し、また城主となる、1581年に重臣として署名した文書もあり、長く兄・正頼の手足となり活躍、寿楽寺を建てるも廃寺となったので後に再建され今は一萬村の西秀寺となっている、因みにこの「一萬村」の地名だが平山星城の合戦で敗れた兵が逃走しこの辺で町野軍に沢山討ち取られた為、このような名前が付いたと言う、一萬人もの兵が死んだ分けではないがかなりの兵が討ち取られたのだろう。

平山星城の横手にある小平ヶ原古戦場  頼員が開祖した現在の西秀寺

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

頼員の墓、横に阿波守祠跡もある。

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

益田大斬りへ戻ります。