吉見 頼安(よしみ よりやす) ?〜1554  

通称  弾正 左馬介
居城  
朝倉羽生城(あさくらはぶじょう)  


正頼の叔父、竹内弘時の舅、上領玄蕃の死後は墓標を立て、天文(1532〜55)の頃、朝倉羽生城の城主として入城した、1550年秋の「正頼暗殺未遂事件」では弘景などと協力し正頼を排除しようとしたが、朝倉の牧瀬渡(まきせわたし)での暗殺は未遂で終わり正頼からの処分もなかった、後に罰せられなかった事を憂い正頼に身を任せる事を決意した、1554年2月の六日市一掃戦では六日市の主城として立戸五郎丸城や指月萩尾城の敗兵を集め、頼安は江良房栄・正信(端土)と壮絶な戦いを繰り広げたがあえなく落城、戦死した。

朝倉羽生城、別名は穢多ヶ城(えだがじょう)とも言う  六日市の牧瀬渡し、この場所で正頼の暗殺事件が起こっていたら吉見家の運命は変わっていただろう。

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

頼安の謎
 弾正を名乗るのは頼豊だと言う家系図が多いなか、なぜ頼安が弾正を名乗ったのかは吉見正頼・暗殺未遂事件に朝倉弾正として関わっていた事と柿木村史に「弾正頼安」とあるのでこの説をとっている、因みに朝倉羽生城を築城し改修したのは上領氏である、戦国期には頼安に渡っていた。

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

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