吉見一族の経緯

先祖は源範頼、範頼の子が横見郡吉見(埼玉県比企郡吉見町)を領した事に始まる、その後、能登に移り吉見家の本家となる地盤ができる、その後石見吉見家の初代・吉見頼行が津和野中曽野に移り館を構えたのが始め、猛者・信頼、葉隠れの雄・頼興、名将・正頼の代で吉見家の名が全国へ渡るのである、その後曲折はありながら大野毛利家として江戸時代に向かうのである。

吉見家の所領
 吉見家は1470年前後、石見では津和野を本領に南は高津まで支配し北は長門国、嘉年・下徳地・厚東と北九州・豊前の貫庄・紫見村と筑前の一部を支配しその版図はかなり広い、そして1480年前後には陶弘護の「山口刺殺事件」で下徳地は没収、そして阿東も攻め取られ徳佐元山城まで占領される、南は拠点・高津小城は落とされ、向横田頚ヶ滝城まで益田氏に攻め取られる、1540年前後には大内義隆から萩を新たに与えられ、そして1560年前後には正頼の時代で旧陶領の上部半分をほぼ斡旋し下徳地や阿東を完全に制圧した(約10万石)、1580年前後には下徳地は内藤隆春の隠居地として打ち渡され実質の支配は10数年だった、しかし鹿野は領主の江良賢宣が隠居し支配者が弱くなる所に付け、実際は吉見正頼が支配に当たっていたようだ、抜け目はない、1590年前後に当主が広頼に代わると時代の流れには勝てず、長門の領地はすべて毛利秀元に没収され、更に益田元祥に黒谷も斡旋され、田万川は市味を益田氏に渡るなど正頼の力が及ばなくなると領地も縮小して行く事となった、1600年前後になると内部分裂もあり、広頼も苦悩の決断があるなど領地は萎んで行ってしまうのである。

吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男・石塔ヶ原 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重

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