クジラのはなし

 海の中で最も大きい生き物はなんだと思いますかね、あなた?

 そのとき俺は、いつもと変わらず他にやることもないので酒場に入り浸っていた。なにしろお天道様も見えないような状況だ、俺を咎めるような奴はいやしない。その証拠にどの席も埋まっている。もっとも、賑やかって雰囲気ではないが……まあ、それも仕方がない。外は相変わらず暗いし、辛気臭くて当然だ。酒の在庫が少なくなってきたことも皆、知っている。
 そんなどんよりとした空気の中、そいつは年代物の酒をちびちびとやっていた俺の隣にやってきていきなり話しかけてきたのだ。最もデカい生き物だって? そんなもんはクジラに決まっている。そう返してやると、奴は満面の笑みを浮かべた。

 ……そう、クジラです。さすが、わかっていらっしゃる。ご存じの通り、クジラというのはそもそも普通のやつからしてかなりの大きさでしてな。伝説に登場するようなクジラとなると、背中に積もった土砂にヤシの木が生えたりなぞして、てっきり島だと勘違いした船乗りが一休みなんて事態も起きるわけで。クジラが深淵に潜ろうとした際に、間一髪で船に逃げ帰ったなんて話も多い。何故にそんなに大きくなれるのかというと、潮水の中では浮力がはたらくためと言われております。陸の上とは違って体重が身体にかける負担というものが小さくなるので、やたら大きくなれると。こういうわけでございますな。
 おっと、唐突に切り出してしまって申し訳ない。この間、不意にとあるクジラの話を思い出したのですが、そいつが私の頭から離れてくれませんでね。よろしければ聞いてやってくれませんかね……

 笑い声一つないのが常の場だ。男の声はそれなりに聞こえていたはずだが、近くで飲んでいる連中ですら一人として興味を示した様子はなかった。俺だって、直接話しかけられたのでなけりゃ同じように無視しただろう。
 しかしそいつは周りの様子などお構いなしに朗々と続けた。話すことが楽しくて仕方がないといった感じだ。俺は改めて隣の男を見やった……前々から見知った顔だったが、声を聴いたことは今までなかった。他の連中と同じように何も言わずただ酒をあおっていたはずだが……どうやらここの暮らしに耐えかねて、ついにどこかおかしくなったと見える。

 ……そのクジラは大層頭のいい奴でして、島のふりをして愚かな船乗りたちがやってくるのを待ち、そして彼らが慌てふためいて船に走るさまを楽しんでおったそうで……身体の上を必死で走るその衝撃が心地よいのだとか。まあ要するに、少々意地の悪いクジラだったのです。そうやってしょっちゅう波の上に顔をだしておったので、このクジラは空を流れる雲や、水平線に浮かぶ山影や、満天の星を照らす三日月なんぞもよく知っておりました。
 とりわけクジラが気になっていたのは、彼方に霞んで見える山々でした。しかしそれは無理な話でした。彼は海に暮らすクジラなのですから。丘に上がれば最後、自分の体重で潰れてしまうに違いありません。
 見えているのに、行くことは叶わない。これはもう、かえって気になって仕方ないとなるのは極々自然なことでありましょう。そこでクジラは海鳥に尋ねました。あそこには一体何があるのかと。海鳥は知らないと答えました。彼らは海のそばで暮らす種でありまして、そんな内陸の遠いところまではいかないものなのです。
 せっかく翼があって、その気になれば空を伝って行けるだろうに、もったいないことだとクジラは言ったそうな。
 もっとも、海鳥のほうはそう言われてもピンとこなかったらしいですが……しかし、それでも山に暮らす鳥と波打ち際で会ったときに、話を聞いてきてくれたのでした。
 乾いた風、潮騒とはまた異なる深緑の葉の立てる波音、そして険しい高みを覆う白い雪……そのどれもがクジラの好奇心を刺激しました。

 こうしてクジラは世界中の海岸線を巡り、川という川を遡ってみようと試みました。かろうじていくつかの大河には頭を突っ込むことができましたが、すぐに進めなくなってしまうのです。一緒に川を遡る鮭がもっともっと先へと進んでいくのを見て、はじめて自分よりも小さい者を羨ましく思ったりしたらしいですな。
 そんなわけで、クジラは川の半ばでどうやっても行けないのかと悲嘆にくれておったわけですが、その様子を見たフクロウが相談に乗ってくれたということでして。この森の知恵者はクジラの悩みを聞くと、いかにもフクロウらしくしたり顔で答えました。
 海のことはよく知らないが(これは彼ら特有の謙遜文化というやつで、もちろん知っているのです)、聞くところによると潮の満ち引きというものがあるらしいではないか。潮が満ちると海が陸へと食い込んでくる……つまり、満ち潮が十分になれば、体の大きなクジラでも泳いでいけるのではあるまいか、と。
 この言葉はクジラにとって天啓に等しいものであったようです。クジラはすぐさま海へと戻り、月が満ちるのを待ちました。月が円を描く時こそが、一番潮が高まるからです。やがて満月の夜がやってくると、クジラは大きく口を開き、海面に映った月を一気に呑みこみました。

 これでクジラの腹には常に満月があることになったと、こういうわけです。
 クジラの周りは常に満ち潮となりました。なぜならそこには必ず月があったのですから。クジラが泳いでいくところには、高波がついて回りました。これまでは超えられなかった海岸線を悠々と泳いで渡り、平原や森や、砂漠や荒れ地だった場所を、ざんぶざんぶと泳いでいきました。そしてついに、悲願叶って山の頂へと上り詰めたと、そういうわけです。

 ……ふむ。信じられませんか。
 お疑いなら、クジラ本人に聞いてみるとよいと申し上げたいところですが、残念ながらそうもいかないのですよな。
 クジラはそのまま雲海へと飛び込んでしまい、今ではもう海原に戻ることもないのです。何しろ、クジラが大いなる高みに辿り着いたのは夜、しかも満月の晩でして。奴め、もう一つ月を食らおうと欲張ってしまったようなのです。となれば今頃はさらに上の上のほう、それこそもう星の間に行ってしまってますでしょうから、その真偽を問うことは不可能というもの。既に二つ目の月を腹に収めたのなら、さもありなんと、私はそう思うのですよ……

 話し終えると、物狂いは満足した様子で店から出て行った。
 俺はもう一杯、持ち帰りで追加で注文してから外へ出た。空は閉ざされていて常に暗い。ここは化け物クジラの腹の中。永年に渡って奴が吞み込んだ数多の船の残骸でできた町だ。住む者も皆、かつては勇気ある海の男だった。だが、かつての気概は霧散して久しく、ただただここで老いて朽ちていくしかない。
 本来どこかに運ぶはずだった積み荷の酒だけが唯一の救いだったが――生きて外に出る望みはとうの昔に皆捨ててしまっていた――それもどうやら御仕舞らしい。空を飛ぶ船なんてありはしないのだ。もう新たな船が酒をもたらすこともあるまい。
 絶望に乾杯!
 俺は最後の一杯を一気にあおった。船の墓場に鎮座する二つの巨大な円月を眺めながら。


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