太古の湖

 知っているかい? 北の国には常に波が立たず、いつも鏡のような水をたたえた湖があるということを。
 聞いたことはあるかい? どんなに厳しい吹雪でも水面は乱れず、どんなに厳しい寒さにも決して凍ったりはしない湖のことを。

 その昔、その湖のほとりで鳥の卵が一つ発見されたんだ。
 知られているどんな鳥のものと比べても大きかったし、どんな鳥の卵だってそんな柄はしていなかった。形だって少し歪だったっていうよ。
 とにかく、世界中の学者たちがその卵がどんな鳥のものなのか知りたがった。でも、何の手掛かりもなかったのさ。

 どうにも正体不明の卵だっていうんで、ついには他の研究をしている学者たちも調べ始めた。
 やれ実は鳥ではなくて、爬虫類の卵なんじゃないかとか、いやいやそもそもこれは卵ではなく特殊な条件下でしかなしえない鉱物なのだとかね。
 でも答えは見つからなかった。

 結局、もうとうの昔にほろんだ動物の化石を研究している学者が調べてみて、ついにこの卵の正体がわかったんだ。
 それは太古の大空を飛んでいた、古い古い大昔の鳥だったというわけさ。

 そうなると、今度はどうあってもこの卵を孵化させようって話になってね。
 そりゃそうさ。何しろこいつは化石じゃない。卵なんだ。大昔にほろんでしまった鳥が、今なお生き残っていたんだからね。

 卵を見つけた北の国は、国の威信をかけてこいつを一大プロジェクトとして進めていったんだ。
 他の国の学者たちは歯がゆい思いをしながら見ていることしかできなかった。

 そして、ついに卵は孵った。中から現れたのは、予想通り古い絶滅鳥類のヒナだったのさ。
 北の国と学者たちはそれこそ大切に大切にヒナを育てた。だから、数年もたつとヒナは立派な成鳥となったってわけだ。

 そいつはいかにも古代の鳥だった。ちょっとずんぐりむっくりで、羽毛に混じって鱗が光っていた。
 翼も飛ぶことはできるものの、今の鳥に比べるとまだまだ進化が足りてなかった。おそらく長距離を飛ぶことはできないと判断された。

 北の国はその鳥を大事にしすぎたものだから、鳥は世界の広さを知らずに過ごしていた。酷い話さ。
 その翼はかつて生き物が空を飛びはじめた時代のものなのに。彼らが大空に挑んだ結果、現代の鳥類へと進化の道はつながったんだよ。
 それなのにその翼を封じてしまうなんてね。これが酷くなくて何だと言うんだい?

 でもね、やはり鳥というものは大空を飛ぶものさ。
 そして生き物であれば、本能的に子孫を残し、命のたすきを渡していくことを望むのが自然だ。
 だからだろうね。鳥は施設を脱走した。研究者たちが目を離した隙に、大空へと舞い上がったんだ。

 鳥は仲間を求めて空を飛んだよ。
 しかしこいつはたった一羽で現代に蘇った命だった。どこを探しても仲間の姿なんてありゃしないんだ。

 北の国の冬は厳しい。やがて季節が巡れば、鳥は孤独にさみしく死ぬしかなかった。

 北の国は皆でして鳥の行方を探したけれど、結局見つかることはなかった。
 このことを知った世界中の人々が鳥を見つけようとしたけれど、やっぱり見つからなかったんだ。

 鳥はね、誰に教えられるでもなく、あの湖へと戻っていったのさ。自分が元々いた場所へ――帰巣本能というのかな。
 常に波が立たず、いつも鏡のような水をたたえた湖だ。
 それはどんなに厳しい吹雪でも水面は乱れず、どんなに厳しい寒さにも決して凍ったりはしない湖だった。

 鳥が飛ぶと、その姿が湖面に映る。
 とうとう探し求めた仲間を見つけたと思い、鳥は湖へと身を投げたんだね。
 ……湖はいつもと変わらず、波を立てることもなく鳥を飲み込んでしまったよ。だからもう誰にだって、あの鳥を見つけることはできないんだ。

 なぜ湖は鏡のような水面を保ち続けていたのか。
 ずっと擁いてきた卵から孵るであろう一人ぼっちの子に希望を与え、心安らかにさせて受け止めるためと思うかい?
 みんなはきっとそうだっていうけれど……僕はね、それはさみしすぎるって思うんだ。

 だってそれじゃ、あのかわいそうな鳥は死ぬためだけに生まれてきたようなものじゃないか。
 そんな生を受けさせるためだけに、湖が永い間卵を擁いていたというのは信じられない。

 ……きっと、たまたま人間が卵の一つを見つけてしまったんだね。
 人間たちは興味本位で卵を孵化させてしまったんだ。まだその時は来ていなかったのに。

 ぼくは思うんだよ。卵は一つじゃないんだってね。だってあの湖は極寒の中でも凍りはしないんだ。今でもそうだ。何か理由があるはずさ。
 もっともっとたくさんの卵が人に見つかることなく、あの湖には眠っているはず。
 湖は沈黙をもって、卵を守り続けているんじゃないかな。

 いつかきっと、自然と目覚めるときがくる。その時には彼らが空を――古代と同じように――群れを成して渡っていくだろう。
 見てみたくないかい? ぼくは見たい。
 ぼくが生きている間にそうなったらいいなと思っている……でも、決して無理強いしてはいけないんだ。

 だからこのことは秘密だよ。
 北の国にある、常に波が立たず、いつも鏡のような水をたたえたあの湖。
 どんなに厳しい吹雪でも水面は乱れず、どんなに厳しい寒さにも決して凍ったりはしない湖のことはね。  


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