カリュブディス

 狭い海峡を船は進んでいた。霧めいた遥か前方から轟々と響く音が両側の断崖の間に響き渡る。先へ先へと流れていく海水に押されるように船が滑っていく。とっくに舵は役に立たなくなっていた。流れの勢いが強すぎて方向を変えることもできないのだ。もう後戻りはできない。
 宝を求めてこの船に乗り込んだ船員たちは総勢十三名。その不安げな声を聞きながら、船長は何度も確かめた古い写本のページを指でなぞった。そう、宝がこの先に眠っているのは間違いないのだ。

 その昔、詩聖とまで称された男がいた。彼の紡ぐ詩には秘密があった。若き日に彼は妖精と戯れ、蜜酒を得たという。その蜜を一滴唇に乗せれば、千の言葉が甘美な響きをうみ、一口飲み下せば万の言葉が完璧な韻を織り出せると言われた。この海峡がまだこれほどの威容を作り上げるよりも前のことだが、詩聖は確かにこの先に住んでいた。
 何年も前からここが怪しいと思っていた。それが確信に変わったのは、詩聖の伝説を詳しく今に伝えるこの写本を見つけてからだ。望む場所へ辿り着くには海路でなければ――船で行かねばならない。彼は船を手に入れ、船員たちを集めた。皆、心の底から宝を求めて止まない、気骨ある男たちだった。

 船長は水しぶきから写本を護るように行く手に背を向け、ページを捲った。
 これだけの秘宝が人の欲を放っておくはずもなく、やがて一人の魔術師が件の蜜酒を掠めようと目論み、詩聖に近づいた。魔術師の目的は蜜酒を売って得られるであろう金ではなかった。彼が求めたのはあくまで詩の才だった。彼は詩聖の弟子になると、数年ものあいだ真面目に詩作に取り組んだ。そして、ついに秘酒を一杯だけ飲ませてもらう約束をとりつけたのだ。彼は懐から角杯を取り出した。それは、弟子入りする前に用意した魔法の器――底なしの角杯だった。
 はたして角杯は酒を全て納めたが、魔術師はそれを口にすることはできなかった。異変に気付いた詩聖が杯を叩き落したのだ。
 杯は打ち寄せて砕ける波間に消えたが、その杯は底なしだった。海底まで沈んだ杯は海水を呑みこみ始めた。吸い込まれる海水は渦となり、その日から今日にいたるまで海峡の両岸を削り続けているのだ。

 獣の吠えるような響きが前方から流れてくる。それはあらゆる物を喰らいつくす渦の咆哮だ。引き寄せられるように船は海峡を進んでいく。場数を踏んだ熟練の船乗りも、無謀ともいえる勇気にあふれていた若者も、今となっては船長を除く全員が恐怖におののき、叫んでいる。船が止まることはない。轟音は気が狂いそうな大きさになって船を包んだ。四人の船員が耐えられなくなり、手すりを乗り越えた。だが激しい流れに逆らうことは叶わない。波にさらわれた一人が勢いよく岩に打ち付けられるのが見え、残る三人もあっという間に海に呑みこまれて消えた。その様子は残った者たちに、己を待つ運命から逃れることはできないのだと悟らせるに十分だった。絶望は彼らから言葉を奪った。どうあがこうとも無駄なのだ。何も変わりはしない。誰ももう口を開かず、聞こえるのは波が岸壁を削る音と、いずれ彼らを呑みこむであろう渦の音だけとなった。ただ一人、船長だけが目的地へと近づいていることを確信しているのだった。

 不意に前方が広がった。断崖が広く丸く開けていたのだ。そこでは大渦がいっぱいに広がり、海水が大きく窪んでいた。今まで立ち込めていた霧も無かった。全てが渦へと落ち込んでいくのだ。発作的に船から飛び降りた男が、水の壁に囲まれた虚空に呑みこまれて消えた。船も同じように落ちていくのだと誰もが思った。一人を除いて。
 船が乗ってきた流れは渦に捕らえられ、何重もの円を描きながら渦の内壁を下っていく。船は未だその流れに乗っていた。螺旋を描きながら水面に押し付けられ、船員たちもまた甲板に押さえつけられる。ほとんど真横になりながら高速で流れていく船の上で、足元に広がる深き穴に、船長を除く全員が恐怖した。深淵が水を呑みこむ響きが暗い闇の中から登ってくる中、徐々に水の壁がせりあがっていき、やがて日の光を遮った。

 もう船長は導きの写本を護ってなどいなかった。深淵から吹きあがる強風が、ずいぶん前に彼の手から本をもぎ取っていってしまった。暗くなった水の縦穴を、船は辛うじて落ちずに螺旋を描き続けている。
 たたまれていた帆が風を孕み、引きちぎられた。何人かの船員が煽られて空中に巻き上げられ、悲鳴を残していった。その間にも船は下へ下へと降りていく。

 めきめきと何かがひしゃげて折れる音がした。船のマストだろうか。もう何も見えない。誰かがしがみついていたらしく、幽かな泣き声があがったと思う間に消えていった。船体が裂けていく不吉な音はもう止まらなかった。残った船員たちもまた、一人一人と船から引き剝がされていく。だが船長の目は、ただ渦の中心に広がる闇へと据えられていた。
 いつしか彼は一人になっていた。もう誰も残っていなかった。だがまだ道半ばだ。半壊した船と共に彼は先を目指す。暗い暗い、未だ見えぬ海底に、彼が求めてやまない妖精の密酒を擁した魔法の杯があるのだ!  


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