未熟果

「こんなはずじゃなかった……貴方は酷い人だ」
 もうまともに動かすこともできない唇で、セルゲイ・ホロヴィッツは言った。動かないのは唇だけではない。舌や喉はもちろん、手足の指一本に至るまで微動だにしない。多くの他人と混じりあい、こんがらがった状態で彼はここに固定されていた。
「騙すような形になったことは申し訳なく思う。だが、君のおかげで地球は次世代へ実りを残すことができる」
 ローウェ師は、足元にうずくまる男――かつてはホロヴィッツと呼ばれた、一つの精神の残骸――を見下ろしながら応えた。ホロヴィッツは何か言いたげな視線をローウェに向けたが、結局言葉を継ぐことは無かった。

 ローウェ師は意識を保ちながら、ありとあらゆる精神がひしめく間を進んでいた。これまでの旅と同じく、今回も特に目的地があったわけではない。ホロヴィッツと出会ったのも偶然だった。ただ百億弱もの精神が混ざり合う中、現在の地球の様態を確かめているのだ。彼は、瞑想に入ったインド南部に身体を残したまま出立し、中東を経て東ヨーロッパまで進んだところだった。まだこの旅を始めてからほんの数十分(正確な時間ではない――彼の感覚ではそれぐらいだったということだ)に過ぎなかったが、間違いなく世界中が同じような有様だろう。ロンドン、パリ、ジャカルタ、トーキョー、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨーク……。ローウェ師はあらゆる大都会を見て回った。人が暮らすには過酷な僻地をも巡った。彼はまた、人類が新たなフロンティアと定めた宇宙への夢が滓となって溜まる場所へも意識を運んだ。フロリダの宇宙センターには人影はなく、全てが静まり返っていた。他の国のあらゆる宇宙開発関連施設も、同様だった。

 ローウェ師は目を開いた。南インドにある僧院の窓から外界を見ながら、彼はかつては騒がしかった世界の有様を思い返していた。
「我々は性急すぎた。こうするより他に取るべき道は無かったのだよ……ホロヴィッツ」

 人類はこの地球に咲き乱れた花だ。しかし残念なことに早熟だった。何もしなければ、この早咲きの花は実を結ぶことなく散っていくことしかできなかっただろう。

 昔からそれは幽体離脱や生霊などと呼ばれ知られていた。永らく迷信や世迷言などと言われ続けてきたこの現象は、ついに数年前、科学的解明の糸口をつかむことに成功した。学会一の変人と呼ばれたセルゲイ・ホロヴィッツ博士が、精神を肉体から引き離すことに成功したのだ。研究のヒントになったのは、何千年にもわたって伝えらえてきたインドの秘術、瞑想の秘儀だった。精神修行の果てにたどり着ける極致。仙人と言われるような人々のみが成し得る肉体からの解脱。博士はそれを外部からの影響によって引き起こそうとしていた。何十年にも及ぶ研究と臨床の結果、現代において仙人と呼ばれる者の一人、ローウェ師の協力を得て、彼は見事それを成し遂げたのだった。
「貴方の協力なしにこの成功はありませんでした。この五年の成果はめざましかった。貴方がいなかったら……私だけだったら、一生かかっても成し遂げることはできなかったでしょう。
 しかし、よかったのですか? その、貴方たちは科学を嫌っているのではないかと……」
「確かに、そういう一面はあります。古老の中には私を異端者と呼ぶ者も居ると聞いています」
 そこでローウェ師は博士に微笑んで見せた。
「しかし私は確信しているのです、ホロヴィッツ。この発明こそが、全人類を……ひいては地球を救うのだと」
「それは大袈裟ですよ。確かに私はこの技術を難病に侵された者や、肉体に損傷を受けた人々のために使っていきたいとは思っていますが……しかし、まだクリアすべき問題は残っています。貴方たちのように精神を研ぎ澄ませてきた者とは違い、この技術で精神を解放した場合、他者とのコンタクトが難しいということです。命を繋ぐことができても、孤独なままでは意味がない。離脱者と、健常者の間のコミュニケーションがとれないと意味がないのです。我々は未だ、半歩しか進んでいない」
 ローウェ師はホロヴィッツ博士の肩に手を置いた。
「それは現代科学が最も得意とする分野ではないですか。大丈夫、私たちは先へ進んでいけますよ」   

 ホロヴィッツ式精神離脱法は、医療ケアのための新技術として発表されるはずだった。しかし、軍部や国家、そして大企業はホロヴィッツ式精神離脱を凍結させた。離脱者にはあらゆるセキュリティは効果を発揮しなかったからだ。彼らは暴かれては困る秘密を抱えていた。そして、ホロヴィッツ博士を妨害するだけの力をもっていたのだった。博士の目的はあくまで救済であり、スパイを野放しにすることではなかったので、博士は彼らのために離脱者を締め出すことのできるセキュリティシステムを作ることになった。
 やがて問題は解決し、精神離脱法は日の目をみることになり、博士の想いは見事に実を結んだ。
 そして一年もしないうちに既知の別技術――仮想現実と結びつけられた。仮想空間で活動するためのデバイスが、コミュニケーション手段として活用できることがわかったのだ。ホロヴィッツ式精神離脱法は博士の手を離れた。技術は解析され、博士のあずかり知らぬところで、離脱者は増えていった。精神離脱は現実逃避を望むすべての者に贈られた希望の扉となったのだ。それはあっという間に堕落の顎となって社会を蝕んだ。デバイス越しに世界旅行や、個人のプライベートを覗き見して楽しむ様が伝えられ、さらに多くの者が肉体の管理を病院に委ね、離脱へと身を投げたのだった。

 セルゲイ・ホロヴィッツ博士が離脱者となったのはいつのことだったろう。彼は自分が生み出した技術に絶望したのだ。だが博士は死を選ぶのではなく、離脱へと進んだ。自分が何を生み出してしまったのか。それを確かめないまま消え去ることを良しとしなかったのだった。だが、世界はこのニュースを小さく報じただけだった。精神離脱のことを知らない者は居なかったが、セルゲイ・ホロヴィッツの名を知る者は少なかった。
 そして博士は何を見たのだろう……もっと後になって、彼の口から出た言葉は、こうだった。「こんなはずじゃなかった……貴方は酷い人だ」

 博士が去った後も、精神離脱法は止まることはなかった。それは徐々に人類を喰っていった。離脱人口が増えるたび、病院に横たわり点滴で生かされる肉体の数は増えていった。街からは人の姿が消えていき、デバイス越しに人生を謳歌する者が増加した。
 やがて精神同士混じり合うことができることが分かった。それは新しい愛の証明として受け入れられた。指先を繋げただけの恋人たちの中から、もっと深く融合する者があらわれるのに、そう時間はかからなかった。

 無理心中ならぬ離脱の強制が、歪んだ純愛を表すテーマとなった。

 金の力で技術者を抱き込み、愛するペットと共に離脱する者が現れた。

 全人類融合を謳う宗教家が現れ、信者たちを巻き込んだ集団離脱も行われた。

 しかしそれは彼らの死を意味するものではなかった。精神の摩耗は肉体のそれに比べるとゆっくりと進行する。彼らは入れ代わらなかった。ただ、累積していった。千憶に届こうかという離脱者が地球にあふれ、意図せずとも融合が起きるほどに過密度となっていった……
 ……多くの者が融合している中を、干渉を受けずに歩むことができるのは、精神修行をきちんと積んできた一部の者だけだった。

 こんなはずじゃなかった……貴方は酷い人だ。
 かつてセルゲイ・ホロヴィッツは、もうまともに動かすこともできない唇でそう言った。動かないのは唇だけではなかった。舌や喉はもちろん、手足の指一本に至るまで微動だにしない。多くの他人と混じり合い、こんがらがった状態で彼はあそこに固定されていた。

 年老いたローウェ師は今でもインド南部にある自分の僧院にいる。瞑想の秘儀に通じた者は、ホロヴィッツ式の技術に頼らずとも精神の旅をして、そして戻ってくることができるのだ。
 世界にはもう、知性ある人間は殆ど残っていなかった。数多の肉体を管理を任された病院も機能停止に陥って久しく、一部の愛玩動物を巻き込みながら、全てが融合した精神体となって地球を包んでいた。  

 この累積精神体は、次の知的生命体のための肥やしとなるだろう。
 星に生まれた知的生命体はその精神性を進化させていき、死して英知を還元してきた。大地が育む生命には、先達が遺した知性が宿っているのだ。

 だが人類は性急に技術革新を起こし、精神進化が成熟するよりも早く宇宙進出へと至りつつあった。
 これでは地球に次の種がまかれることなく、知は宇宙へと散ってしまう。
 地球に、再び知的生命体が生まれることはなくなってしまうのだ。

「君のおかげで、地球は次世代へ実りを残すことができる」
 ローウェもまた、皆と融合するだろう。自分が最後の一人であることを確かめたその時、次の世代へ受け継ぐために。  


戻る