望郷の雪

 その雪は、地上のものではない……どこか遠くからやってきて、この頂に積もったのだ。
 一年を通じて溶けることのないその結晶は、風もないのに雪崩となって空へと舞い上がる。そして宙を舞った後、再び頂に降り積もる。
 おとぎ話? いやいや……山で長く暮らす木こりや狩人によって、何度もその光景は報告されている。大昔の記録にだって残っているのだ。
 理に反しているように聞こえるが、なあに、この世の全てが解明されつくされたわけでもあるまい。もしもそんなことになっているのだとしたら、なんて味気ない世界だろう。そんなだったら、生きる楽しみの大部分は失われてしまうだろうさ。

「次は今夜2時過ぎ……天候が良ければいいが、ちょっと読めないな」
 ラッシュル氏はそう言った。彼は猟師ではない。木こりでもない。彼はただ、空へと舞い上がる万年雪を見るためだけに山に籠る変わり者だった。理解者は誰もいない。彼は一人だった。さっきの言葉も、誰に聞かせるわけでもなく口から出たに過ぎない。
 この山の不可解な雪は、よく知られた現象だ。だが、今や誰も興味を持つ者はいない……ラッシュル氏を除いて。かつては多くの自然科学者や空想家が観察と解明に励んだというが、その誰もが匙を投げてしまった。『よくわからんが、そういうもの』という扱いになって数世紀、ラッシュル氏は久々に現れた探究者だった。しかし山も雪も何も語らず、ただ定期的に舞い上がるという事実だけを突き付けている。
「16時間、正確にはそれに8分と3秒。この周期にどんな意味があるのだろう……それに、重力に反する動きを成すために働いている力が何かあるはずなんだ」
 ラッシェル氏は夕方の空を見上げながら呟いた。同じ問いをもう何度口にしたかわからない。だが、この二つには何か関係性があるに違いないという確信はあった。この季節はあっという間に暗くなる。夕闇の中で、大小の月が白く輝いていた。

「さよう、月の輝きはその成分によるものでしてな。我々の月の場合、そのどちらにも氷が多く含まれているために反射率が高い。つまりあの白さは太陽の光ということですな」
 あの日、二つの月がやけに明るく見えた夜、16時間8分3秒の周期を迎えた山の雪は空へと舞い上がった。その煌めきが月の光の中で白く踊っているのを見て、天啓を得たと思ったラッシェル氏は山を下り、街の天文学者のところへ来ていた。
「月からその氷が剥がれて落ちてくるなんてことはあったりしますかね、先生」
「大月小月に限らず、あらゆる星はその生成過程にてそれぞれの重力によって形を成していく。地殻変動によって噴出されるならともかく、剥がれ落ちるなんてことは考えにくいね」
「大月あたりに地殻変動が見られるなんてことは……」「ないね」
「では小月は?」「同じだよ」
 ラッシェル氏は天文学者のところから退出した。

「いいかね? この鉛筆は主に木からできている……あとは炭とわずかな塗料だ」
 物理学者はそう言って、一本の鉛筆を指でつまんで見せた。
「地球には重力があって、つまり……こうなる」
 指から離れた鉛筆は床に落ちて転がり、乾いた音を立てた。
「地球ができたときに、重力でまとまったんですよね。知っています」
 ラッシェル氏が言うと、物理学者の先生は頷いた。
「この鉛筆は地球で育った木でできていますよね……もちろん、炭も」
「まあそうだね。他の星に木は生えてないだろうからね」
「つまり、地球のものならば地球の重力に引かれて落ちるということになりますかね?」
 先生は首を傾げた。「いや……そう言い切れるかどうか。地球の外から持ち込まれた物が何かあれば検証できるのだが……」
 残念ながら、そんなものはここにはなかったので、ラッシェル氏はおいとますることにした。

「16時間に、8分と3秒……要するに58083秒」
 彼は再び天文学者を訪ねていた。先生は円軌道をいくつか書き込んだ図面とにらめっこしていた。
「……理論的にはありうる軌道と言って差し支えない」コンパスを置きながら学者は言った。「ただし、地球の潮汐力でバラバラにされるかもしれないギリギリのあたりですな」
 ラッシェル氏は何か――決定的な何かに触れた気がした。そこで彼は聞いてみた。
「もしもかつて、三つ目の月があったとした場合……その月が、バラバラにされて地上へと落ちてきたということはありえないでしょうか」
「そんな記録は見たことも聞いたこともないが、ありえない話ではない……月といっても色々ですからな。それこそ落ちても誰にも気づかれないような小さな岩屑ならいくらでも」
「……雪の塊もですね」
「そういうこともあるでしょうな」
 天文学者に礼を言って立ち去るラッシェル氏の顔は晴れやかだった。秘密をついに掴んだのだ。彼はその成果に満足し、山へと戻っていった……再びあの光景を見るために。

 地球のものは地球の重力に引かれる。ならば、月のものはどうか。もちろん月に引かれるのだ。大月のものは大月に。小月のものは小月に。そして、今は失われた第三の月の氷は、もちろん第三の月に帰属する。かつて地球の潮汐力によって砕かれた雪の塊は、結晶となってあの頂に降り注いだ……ちょうど、その真上で砕け散ったのだろう。いや、月の欠片は地球のものではないのだから、降ってくるということはないはず……そうか、もしかしたら山の先端がかすめたのかもしれない。たった23時間56分4秒で一回転する地球から飛び出た頂は、恐ろしいスピードで哀れな月を襲っただろう。無残に砕けた月の一部を攫っていたとしても不思議ではあるまい……いずれにせよ、頂は高く厳しく、いかなる季節においても解けることのない万年雪となったのは幸いだった。そうでなければこの稀有な雪片は水となって流れ落ち、地球の川や海と混ざって一緒くたになってしまったに違いない。だが、そうはならなかったのだ。
 そして雪は今も第三の月へと戻りたがっている。16時間と8分と3秒。かつて巡っていたはずのその地が頂に近づく時、雪は一斉に舞い上がり空を目指す……懐かしき故郷へ戻ろうとして。だが、そこにもう月は無い。目指す場所を見つけられないままに、その瞬間は過ぎ去ってしまう。漂う氷の六華はやむなく、地球へと下る……幾度となく。そして次の機会を――58083秒後の逢瀬を待つのだ。


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