三兄弟とほっそり紳士

 何度訪れてみても、その度にこの光景には驚かされる……見渡す限り一面、何もない荒涼とした地平の中心に黒々と抉られた裂け目。地獄の入り口なんて噂すらある深淵だよ。君はここに来たのは初めてのようだね。……私かい? そうさな……君よりはこの場所について詳しいことは確かだろうね。

 今はこんなひどい有様だが、かつてここは肥沃な土地だった。信じられないかもしれないが、緑深い峰があって山の幸は取り放題。湧き出る泉の水も清らかで、名水と呼ばれるにふさわしかった。無論、土地から染み出る滋養も申し分なかったから、その流れには丸々とした魚が住んでいた。そして、それら全てを手にしていたのは一人の男だった。
 その男は若いころから世界を渡り歩き、一生を過ごすに相応しい場所を探し続けていた。既に亡くなってから大分経つが、今でもあちこちで彼の英雄譚を聞くことができる。実に大した冒険家であり、誰もが認める勇者だった……曰く数多の怪物を退治してきたとね。そんな男が選びに選び抜いたのがここだったのさ。あの頃を知っている者なら誰でも彼の判断に異を唱えることはあるまい。まさに「楽園」の名にふさわしい場所だったよ。

 悲劇は彼の三人息子たちが揃いも揃って盆暗だったことだ。親が持っていた聡明な資質も見事に三分割されてしまったわけだ。長男は無双の力と豪胆さを受けついだが、よりにもよって思慮を母親の胎内に忘れてきちまった。その思慮を拾ったのが次男だったが、こいつは最悪なことに良心を無用の物として受け継がなかった。最後に生まれてきた三男は年が離れていた。彼は残された良き心を手に生まれてはきたが……どうにもだいぶ薄れてしまっていてね。残り物には福があるなんてまことしやかに言う国もあるけれど、彼ら三人にはそれは当てはまらなかったな。

 三兄弟は、育つにつれてその資質を開花させていった。つまり、長兄は力で我を押し通す乱暴者に。次男は悪知恵に長けた詐欺師に。それに比べて末っ子は実に惨めだった。豪胆さを全部長兄に持っていかれてしまっていたこともあって、極めて気弱な男だったうえに思慮も足りず愚かだったから、年上の二人にいいようにされても何も言い返せなかったわけだ。
 さすがの父親も老いてきていたから、息子たちには大いに手を焼いた。そしてしまいには全てを諦め、この世からさっさとおさらばしてしまった。もう好きにしてくれと言わんばかりに、遺産配分についても何も言い残さなかった。
 当然、三人が遺産の取り分を巡ってもめることになるのは明白だった。長兄はこの土地を独り占めしたいという気持ちを隠そうともしなかったし、次の兄貴も何やらこそこそと企んでいた。三男だけはそんな二人の間でおろおろとしていただけだったがね。程なく、一番年かさの兄が力づくで弟たちを追い出したというわけだ。

 しばらくたったころ、今度は次男が一人のほっそりとした紳士を連れて戻ってきた。長兄が牛耳る楽園の隅でただただひっそりと隠れ暮らしていた弟を誘い、彼らは三人連れ立って兄に会いに行った。

「皆様が抱えていらっしゃる問題ですが、私ならば解決のお力になれると思いますよ」
 ほっそり紳士はそう言った。紳士が言うには、彼は三兄弟の父親となじみ深い間柄で、その落し胤たちがいがみ合っているのは心苦しいのだと。次男は公平な第三者に問題をゆだねることで、長兄の横暴に対抗しようとしたわけだ。もっとも悪賢い彼のこと、紳士との間で何か裏取引が無いとも限らない。しかし、紳士はそれを否定した。「私は完全に公平な立場です。なぜならば、あなた方は皆、我が友の血を平等に引いていらっしゃるのですから」ってね。

 紳士は兄弟一人につき、願いを一つ叶えると申し出た。つまり、その願い一つで自分の取り分を確定させろということだ。願いを叶えるだって? 紳士を連れてきた次男でさえも何の冗談かと眉をひそめたが、即座に長兄は馬鹿にしきった態度でこう言ったよ。
「茶番はさっさと終わりにしようじゃないか。見渡せる限り全ての土地を俺のものにしてくれ! できるものならな!」
 父親が残した土地だけじゃない。地平をぐるりと全て自分の物にしようというんだ。大した強欲さじゃないか。そして紳士はそのほっそりとした身体からは想像もできないような低く響く声で応えた。
 ――よろしい。その願い、叶えよう――
 そして、次に真ん中の兄のほうを向いた。「では、あなたの番ですね。願いをどうぞ」

 不思議なことに、今や誰もが見渡す限りの土地が長兄のものだという認識をもっていた。次男は紳士の力が本物だと察し、かねてよりの計画を実行に移した。この賢しい男は前々から父親の土地を調べており、地下に巨大な金の鉱脈が眠っていることを突き止めていたのさ。
「兄貴は『見渡す限り』と言った……だったら、俺は奴が見なかった地下を全ていただく。ついては邪魔な表面を全て削り飛ばしてくれ!」
 ――よろしい。その願い、叶えよう――
 紳士の力は本物だ。願いは叶う。乱暴者の兄は半狂乱になって土地に這いつくばった。「ふざけるな! 俺の……俺の土地なんだ……!」
 そして願いが叶うと同時に、長兄は消えてしまった……先程得たばかりの取り分もろともに。三人の父親が愛した山々も、深緑の茂みも、魚の跳ねるせせらぎも。全て削り取られたあとに残されていたのは黒々とした深淵だけだ。そう、いま我々の目の前に口を開けているこの裂け目さ。
 邪魔者をうまく排除した次兄は大喜びだった。だがその歓喜はあっという間に萎びてしまったよ。
 紳士は腕を一振りして、その爪を束ねて大地を抉りとったのだが……ついでに地下の鉱脈もひっかけて引き抜いてしまっていたからね。先の兄と同じく全てを失った次男は、絶望のあまり穿たれた大穴――彼自身が望んだ地下が露出しているわけだが――に身を投げてしまったよ。

 その様子を楽し気に見ていた紳士は、そのほっそりとした指を最後の人物――末の弟に向けた。「では、あなたの願いを聞かせていただけますか?」

 その後、三男を見た者はいない。その紳士もどこかへ行ってしまった。この裂け目だけが、紳士が確かにいたことを証明している。だって確かにここは肥沃な大地だったんだから。この有様を発見した人々は、悪魔の仕業にちがいないと考えた。何しろここの持ち主だった男は世界中で名を馳せた英雄だ。彼に恨みを持つ悪魔の一人や二人、いないほうがおかしいってものだ。
 おとぎ話だと思うかい? ……いいや、君はもう信じているだろう。この爪痕を見れば、誰でも悪魔の存在を信じざるを得ないさ。末の弟も同じだった……これまで散々に自分をいじめてきた兄たちが翻弄される姿を目の当たりにしたんだからね。彼は悪魔の弟子になりたいと願った。もう受け取るべき遺産は何一つ残っていなかったし、それよりも自分も同じように振舞えたらと思ったんだ。親から受け継いだ良心かい? そんなものは彼の人生において何の役にも立っちゃいなかったんだ。なんの未練もなくこの裂け目に放り捨ててやったさ。
 ……もっとも、それが紳士の狙いだったのかもしれないがね。何しろ彼は確かにその時、唇の端をうっすらと上げたんだから。

 さあ、これで話は終わりだ。悪魔の力を知ってもらったわけだが……ここで君と出会ったも何かの縁。何か抗い難き願いを抱いているのなら、一つこの私が叶えてあげようじゃないか。しかしまだ駆け出しの身でね……大いなる我が師のようにうまくいかなかったとしても堪忍しておくれよ。


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