豊饒

 今日も風が砂を運んでいる。乾いて久しい喉が痛むが、この心の軋みに比べれば大したことはない。
「何か足りないものはありませんか?」
 その声を初めて聴いたときは耳を疑った。遠い故郷に残してきた恋人の声にそっくりだったから。しかし今はもう、このがらんどうの魂に空しく響くだけだ。俺は幾度となく口にした言葉を漏らした……何もいらないと。

「何か足りないものはありませんか?」
 美しい女の姿をしたそれは、愛しき声で今日も繰り返す。こんな思いをするぐらいなら暗い虚空を漂っていたほうがましだった。問われる度に湧き上がる深い後悔の念。あの時、俺はわずかな生存の可能性に賭け、最も近い位置にあったこの未登録惑星へ緊急着陸した……今思えば馬鹿なことをしたものだ。もしも再びやり直せるのなら、喜んで宇宙の深淵にこの身を投げるだろう。この星は牢獄だ。それも、乾いた希望を強制的に押し付けられる地獄だった。
 思い返しても愚かの極みであるが、当初は生き延びたことに感謝した。あの女が現れたのは、壊れた宇宙船を調べようとしたときのことだ。二度と聞きたくないと思いながらも、解放されることのない響き。だが、あの時は本当に希望そのものだった……。

 望んだものは全て手に入った。よく覚えている……最初は食事だった。とにかく滋養のあるものが欲しかった。不時着の衝撃で傷ついた身体を回復させなければならなかった……女がどこからともなく運んできた食事は不味かったが、その効能は本物だった。数日のうちに傷は塞がった。
 次に望んだのは、女そのものだった。女は毎日、ことあるごとに「何か足りないものはありませんか?」と繰り返した……それしか言わなかった。それでももう、孤独には耐えられなかった。俺は女を抱いた。女の声が恋人に似ているのに気づいたのもその時だ。そうだ……最初は違った声だった気がしてならない。だが、確証はない。

 望めば何でも手に入る。女がどこからか持ってくるのだ。だが、宇宙船の修復に必要な部品だけは手に入らなかった。女は確かに必要な部品を持ってくるのだが、船を修復しようとしてもうまくいかないのだった。船の周りには俺が投げ捨てたそのガラクタが散らばり、積もって塚となっては崩れた。塚の残骸が3つになったとき、俺はその望みを口にするのをやめた。

 それでも女は問い続けた。俺は今日も同じ言葉で返す……何もいらないと。嘘だ。俺は今でも欲している。たった一つの部品さえあれば……あの壊れてしまった回路さえ修復できたなら。しかし、それは手に入らない。3つの崩れた塚がそれを証明している……違う。次の1つが正常に動くはずがないと誰が言った? 壊れてしまった心が、そう思い込んでいるだけだ。俺は舌を口蓋から引きはがしながら呻いた……船を修復するのに必要な部品をくれ。
 不具合の発生を告げるアラートが鳴った。それはそうだ。その通りだ。もちろん直るはずないのだった。明らかだった。わかりきっていたことだ……俺は役立たずのガラクタを握りしめ、4つ目の塚を作る代わりに、そいつを女の頭に叩き込んだ。この女を殺し、そして自分も死ぬ。とうの昔に潰えていたはずのこの命、こんな乾いた牢獄で生きながらえていて何になろう!

「何か足りないものは……ありませんか?」
 不自然に窪んだ女の頭から声が漏れ出る。もう一回、さらに一回殴りつけた。女の頭を突き抜けた俺の手から、千切れた首がぶら下がる。しかし、女はまだ黙りはしなかった。首がもげた穴から甘美な声をあげているのだ……足りないものはないかと。
「何もいらない!」俺は叫んだ。「お前もだ……だから消えてくれ!」
「……何か足りないものは」
 もう最後まで聞きたくなかった。咄嗟に俺は声を上げる身体を蹴り飛ばす。女の形が崩れ、砂となって風に散った。俺の手にまとわりついていた首も崩れ去った。3つの塚だったものもまた、消えてしまった。そして、この星の食物で繋がれていた俺の命も……消えていくのがわかった。

 最後の刹那、彼は思い出す……最初に求めたものが何だったのかを。食事を望むよりも前、地表に墜ちたその瞬間、彼は同胞を求めたのだ。いずことも判らぬ星で、たった一人で死ぬかもしれないなんて耐えられなかった……しかし今、彼を看取る者はいない。ただ一人寄り添ってくれた女の命を――地球人の姿をした「何か」を自ら手放し、誰にも知られることもないまま、この世から消え失せる……

 この星が生まれてから何十億年。この地には生命の芽生えはなかった。そこへやってきた一人の男。孤独を脱した星は、その全てを地球人に与え続けた……ただ一つ、決定的な喪失に繋がる願いを除いて。
 それが男を追い詰め、拒絶を選ばせた。再び星は孤独な存在となった。残ったのは彼が乗ってきた宇宙船だけだ……しかし、この星にとってその価値は計り知れない。程なく地表を吹き抜ける風が、かつて彼と、彼の望みの全てであった砂で船を包み抱くだろう。  


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