最も巨大で最も複雑な構造体

「今のこの世の中こそが、地獄だという人もいる」
 マクミランはいつものように切り出した。
「人間として生を受け、苦しみながら生きているこの現状こそが、罪を犯した魂の証だと」
「僕は地獄に落とされるような罪を犯した覚えは無いんだがなぁ」とアーヴァイン。彼は読んでいた本を閉じながら椅子の位置を変え、マクミランのほうを向いて座り直した。「君が言っているのは、いわゆる輪廻ってやつのことかい? 仏教用語だったっけね」
「そうさな」マクミランは頷いた。「古今東西、あらゆる死後観には共通するポイントがある。臨死体験などの、実際に死に瀕した経験からくるイメージってところだ。そういう意味では、言葉や表現は違えど根底にあるものは同一だろう。選んだ宗教や価値観なんて表面上の飾りに過ぎない……結局同じ人類って種族なんだから」
「まーたそういうことを言う」アーヴァインが薄ら笑いを浮かべた。さっきまで昼食をとる学生たちでごった返していたカフェテリアには、もう彼ら二人しかいなかった。「そんなだから、みんな君の話を聞きたがらないんだよ。……僕かい? 僕はさほど信仰心が篤いほうじゃないからね」
 販売カウンターを通じて調理場から後片づけの音が聞こえてくる。もう午後の授業の時間になっていた。
「ダンテ・アリギエーリの『神曲』は知っているだろう? 『地獄扁』だ。あの地獄には階層がある」誰かが聞いているのなら構わないという口ぶりで、マクミランは言葉を吐き続けた。「罪の深さによって落とされる階層が異なるということになっているが、果たしてそれだけだろうか?」
「ダンテによると、天国も階層別になっていたね」アーヴァインが口をはさんだ。「思想としてはうまく整理されていると思うけど」
「それはどうかな」とマクミラン。彼はアーヴァインに挑むような視線を向けた。
「アリギエーリ氏に限らず、今のところ俺が知る全ての地獄観には欠陥がある」
「どういうことかな?」
「死にゆく人間の数は増える一方だってことさ」マクミランはにやりと笑った。
 アーヴァインはぱちくりと目を瞬いた。「……地獄の人口問題ってことかい?」

 営業時間が終わったカフェテラスから追い出された二人は、学内の並木道を歩いていた。季節はもう秋も遅く、二人の足元では踏まれた落ち葉が音を立てている。
「この葉がこれまでに死んだ人間だとしよう。彼らは最後の審判を待ち続けている……その時が来るまで、次々と新しい命が芽生え、懸命に生き、そして死んでいく。落ち葉は順次土に帰っていくが、人間はそうではない。ミレニアムへの選別が行われるまでひたすら溜まり続けるんだ。地獄や天国といわれているのは、そのための待機場所に他ならない」
「神がこの世を造り、アダムとイブを生み出されてからこっち、死後の世界の密度は上がり続けているというわけだね。ここ数世紀での人口増加のスピードは半端ない……確かに最初の設計の限界を超えていると言われても、あり得ない話とは言えないかな」
 マクミランはまだ葉が少し残っている梢を見上げた。「地獄も天国も、増築が必要になっているのさ。もうとっくの昔にそうなっていても俺は驚かないね。そして新たに作られた地獄の地獄、天国の天国は数多の階層となって積みあがっていく」
「最初に君が言っていた『この世が地獄』ってのは、その階層の一つだってことかい?」
「何も悪いことをしていないのに、苦しみに満ちた人生を送らざるを得ない……そんな自虐の念が導く解の一つの形さ。生まれながらにして罪人であるのなら、自分が地獄に生きているのも仕方がないのだとね」
 アーヴァインはため息をついた。「自ら地獄に身を置いているってことかぁ。救えないね」
 マクミランも頷いた。「まったくだ……だが、神が造りたもうた世界が階層構造になっているという考え自体は面白い」

 医学の発展により、人類の寿命は長くなった。これももしかしたら、最後の審判を待つための苦肉の策なのかもしれない。既にぎゅうぎゅうになった地獄や天国を見て、悪魔は天使は神に苦情を申し立てているのだろうか 神のほうはどうだろう? 全てが終わってから審判を行うなんてシステムにしてしまったことを後悔しているのではないだろうか。アダムとイヴから始まった人類という種が最期の時にどれほどの規模になっているか、もう計算もしたくもないはずだ。全ての死者と、今生きている人類全てと、さらにはこれから生まれてくる全ての者を合わせた数の裁判を行わなければならないのだから。

「ギリシャ神話の地獄には、裁判官が三名いる。ラダマンテュス、ミノス、アイアコスだ」
 マクミランは今日もまくし立てていた。「複数の裁判官が必要ということは、それだけ一人一人の死者に対する評価に時間がかかるということだ」
「我らが神はギリシャの神々よりも有能かもしれないよ」とアーヴァイン。彼は相変わらす、傍らにいるこの友の脳みそから延々と湧き出る考えを面白がっていた。
「古代ギリシャの人々だって、同じ神が作ったアダムの子孫さ。人類の語る神々の姿は数あれど、その全ては同じ存在を表している……当の論者だけが勘違いしてるのさ。それぞれが多面体の別の側面を指して、お互いにお前が間違っていると喚きたててるわけだ」
「世界中の人々が君のように考えたのなら、宗教戦争はすべて解決するね」とアーヴァイン。だが、実際にはそういった思想の違いから争いが生まれ、多くの人が命を費やしている。

 長くなり続ける死者の列。この魂の連なりを捌くのに一体どれだけの時間がかかるのだろう。もしかしたら、人類がこの世に造られてから今日まで過ぎた時間よりも長くかかるのかもしれない。いや、現在を生きる人類の数を考えると、そう考えるほうが自然に思える。何しろ生きている者は皆同じ時を生きているが、審判ではそんな同時に捌けるものではない。たとえ三人の裁判官が付きっ切りで神の補佐をしたとしても、時間的に追いつくことはあり得ない。
 もしかしたら、もう神は人を滅ぼすことを諦めているのかもしれない。そうアーヴァインは思った。なにしろ事後処理が膨大過ぎる。
 しかし、もしもそうなのだとしたら際限なく増えていく死者のために世界の増築もまた、延々と続けられることになる。その果てにどんな階層世界が構築されていくのか……人類が作り上げる最も巨大で最も複雑な構造体であることだけは間違いないだろう。
 マクミランの舌は止まらなかった。
「もしもそいつが、神が用意しているであろうミレニアムを超える規模になっているとしたら……選別に取り掛かる気が失せてしまっていても責めることはできないだろう」
「なんてことを言うんだい、君は」目を閉じて頭を振り、友を窘めるアーヴァインだったが、その瞼の裏には件の構造物の威容が映っていた。雄大な無限の世界だ。この広大な空間のどこかで、彼とマクミランが語り合っているのだ。
「罰当たりではあるけど……それで滅亡が少しでも遠のくのなら、悪くはないのかもね」

 真実は神のみぞ知る。果たして人の手による成果物は、創造主から匙を投げられるほどにまでの規模となったのだろうか?
 いつ最後の裁きを知らせるラッパが鳴り響くのか?
 あるいは黙示録の天使への指令は撤回されたのだろうか?

 もしも神が人類を滅ぼすことを諦めたのだとしたら、それはそれで人類を認めてくださったということなのかもしれない。  


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