カルロ・ボーン博士はその日も詰め寄る人々を車でかき分けながら研究所のゲートをくぐった。パスを持たない連中はここから入ってくることはできないが、幾度も叩かれ続けた愛車のボンネットはべこべこで、サイドミラーも既に無くなってしまっている。運転席のガラスにはヒビまで入っているが、何とか運転はできる。どうせ直してもすぐにこの状態になってしまうのだから、修理する気も失せて久しい。よくもまあこれだけ飽きもせず騒ぎ立てるものだ……駐車場から建物に入ってカード・キーでドアを開ける。ここを閉じてしまえばもう外の騒ぎは聞こえなくなる。一息ついてから彼は除菌されたスーツに着替え、洗浄シャワーを浴びると仕事場に入った。とある種のトウモロコシを、より多くの実をつけるようにゲノムデザインを行うのが今の彼の仕事だった。
「ったく、あの連中どうにかならんかな」
同僚の一人がぼやいている。どの連中だって? もちろん博士の車をボロボロにしてくれた奴らのことだ。この研究所のメンバーは誰もが皆、連中の嫌がらせを受けていた。
「"神様"が思考の大事な部分を占拠しちまってるんだ」別の誰かが答えるのが聞こえた。
「ゲノムデザイナーが神の隣に並ぶのを許せないのさ。彼らは他の神を一切認めない。故に我々の仕事を辞めさせようとして必死なわけ」
「あーあ、もしも人間のゲノムをいじれたらな」いつもの冗談めいた皮肉が聞こえてきた。「奴らの脳みそから"神様"を除去してやるんだが」
ゲノムデザイナーたちが日々繰り返すそんなやり取りを、カルロ・ボーン博士は全て聞き流していた。今夜は暑くなりそうだ。彼にとっては研究所を取り巻く輩はもちろん、同じ研究室で冗談を言い合う連中よりも、今宵飲むビールを何にするか考えることのほうが大事だった。
「今日は奴らの車を釘でひっかいてやりました!」
「よくやった! だが、俺も負けてないぞ……連中の一人をバイクから引きずりおろしてやったぜ」
アーノルド・オルドマン氏は熱っぽく戦果を報告しあう者たちを冷ややかな目で見ていた。オルドマン氏の思惑にも気づかず、彼らはひたすらに上機嫌だ。
「明日はゲートにペンキをぶちまけようではないか……罪を示す赤があいつらには相応しいだろう!」
オルドマン氏は平和主義者だった。神がこのような行為を認めるとは思えなかった。だが、この者たちもまた、信仰のために行動しているには違いない。
「しかし、暴力はいけません……我らが神はそのようなことは望んでいないでしょう」
「もちろんです、オルドマン師。我々は連中に嫌がらせをするに留めております。決して命を奪うつもりはありません。ただ、彼らの神を冒涜する行為をやめてもらいたいだけなのです」
神のために戦う"誇り"が凝り固まってしまっている様子を見てオルドマン氏はため息をついた。この場では圧倒的な彼らの正義だが、近隣住民の間では贔屓目に見ても研究所に同情する声のほうが大きい。だが、オルドマン氏は神に仕える者として、彼らを見捨てるわけにはいかなかった。
この分だと大分暑くなるだろう。ならば冷えたビールを用意して……彼は今夜焼くことになるであろうソーセージの皿を思い浮かべた。毎日毎日こんなことを繰り返しているのだ。多少の現実逃避も、神はお許しになるに違いない。
「というわけで、今日は『ライトボール』を用意した。定番だが、こんな蒸し暑い日にはうってつけだろう」
カルロ・ボーンは脇に置いてあったクーラーボックスから、町おこしの一環として絶賛売り出し中の地ビールの缶を取り出し、二つの敷地の境目に設置されたテーブルの上に二つ――彼と、彼が認める友の分だ――並べた。その隣では、バーベキューセットが香ばしい煙を上げていて、金網の上のソーセージの油が爆ぜるのをオルドマン家のアーノルドが見守っていた。
「悪くないね」
アーノルドは絶妙の焼き具合を見極め、肉を取り上げた。これでひとまず最初の一杯の準備は整ったというわけだ。
「今日もお前さんのところのやかまし連中が来ていたぜ」
「私もね、何度も言って聞かせてはいるんだよ……頼むから犯罪には走ってくれるなと。それは神の意に反する行為だとね」
カルロは早速『ライトボール』を一口流し込んで喉を鳴らした。「どう考えても、法を犯してるだろうが」
実際、ボーン家の敷地内に止まっている車はべこべこなのだ。「うちじゃ、思考去勢しちまえなんて話も出てるぜ……毎日のようにな」
「思考去勢? 性格を司る部分のゲノムをいじくるってことかね」アーノルドも椅子に腰を下ろして飲み始めた……地ビールの旨味が喉に染み渡る。
「それはあれかね、ロボトミー手術のようなものかな?」
「ずいぶんと古いものを持ち出してきたな……あんな雑で乱暴な施術と一緒にされては困る。この仕事は極めて繊細な技術で成り立っているんだぜ」
アーノルドが焼いたソーセージを齧りながらカルロはさらに一口飲んだ。この愛すべき隣人が焼く肉は実に絶品で、これは彼がここに居を構えていてよかったと思える最たる理由の一つだった。こだわって選んだビールの泡に良く合っている。一方、アーノルドも常々カルロの選酒眼に感心することしきりで、彼らはこうして毎晩飲み合う良き隣人同士だった。
「君たちなら、このビールをもっと美味くすることもできるわけだね」新たな缶を開けながらアーノルドが言った。
カルロのほうはと言えば、既に二本目をほぼ空けたところだった。唇についた泡を指で拭いながら彼は答えた。「麦のゲノムをいじくれば可能だ……だがな、もうすでにやってしまっているよ」
アーノルドはそれを聞いて何かを察した様子を見せた。そう、公にはされていないが、『ライトボール』が使用しているのはゲノムデザインされた品種なのだった。
「……とんでもないモンを飲ませやがってってか?」カルロは相手の瞳を覗き込みながら手にした缶の最期の一滴を啜り上げた。
「いやいや、そんなことはないよ」アーノルドは視線をそらさずに答えた。
「ビールの旨さを引き上げられたというのも、神がその麦にそれだけの可能性を与えておいたからに他ならないからね。すべての被造物は人間の役に立つように造られている。君たちは本来のポテンシャルを引き出しただけ、ということもできるのではないかな」
「お前さんの考え方は最高だ……是非ともあの連中に説いてやってくれ」カルロは三本目に取り掛かった。「……実はもう一つ方法がある。どうするんだと思う?」
「……人間の味覚のほうを変えるのかな?」隣人の答えにカルロは思わず手を打った。
「ご名答だ。どんなにまずい酒であろうと、そいつを美味いと感じるようになってしまえば問題は解決する。実際、この方法を用いれば全世界の食わず嫌いはあらかた解決するはずだ」
ちょうどいい感じに焼けた肉を皿に移しながらアーノルドは笑みを浮かべた。「今まさに旨いものを食している我々には縁遠い話に聞こえるね」
「人間のゲノムを書き換え、超人へと変えることは理論上可能なんだ」
夜が更けて少し肌寒くなったところに温ワインをちびりとやりながらカルロが呟く。既に『ライトボール』は品切れだった。
「より力強く、より頭脳明晰に。より我慢強く、より健康で長寿。病気の克服に予防……人間ってのはまだまだいじくれるところが多い。不完全品と言ってもいいぐらいだ」
「"産めよ増やせよ地に満ちよ"とは我らが神の御言葉だが、そのためにもゲノムデザインが一役買えるということかな?」
「人類って種は既に地に満ちてはいるだろう……もっとも最近は出産率の低下が社会問題になってるがな。まあ、本当に対処が必要となればゲノムデザインで受精率を上げることは可能だ」
「ふむ。近年、これまで聞いたこともないような病気やウイルスが猛威を振るっているわけだが……そういった脅威にも対抗できたりするのかね?」
「病原菌やウイルスについて十分に研究できればな。絶対とは言いきれないが、間違いなく耐性を上げることはできるだろうよ」
カルロは相手のカップが空になっているのに気づき、新たなワインをとろ火にかけた。「……神の試練とやらを無効化してしまった場合、お前たちは"大罪"だと非難するのか?」
アーノルドは手にしたコップを覗き込んだ。まるでワインの水面に神の姿を求めているかのように。
「神による試練とは何か……私たちが決めつけるなどおこがましいだろうね。だが、神が我らを罰しようというのではなく……人類に試練を課すのであれば、我々はそれに立ち向かわなければならない。神の期待に応えることが、我々の使命でもあるからね」
「人が自然と共にあり、かつ地に満ちていく以上、今はまだ知られていない脅威と出会うのは必然と言える。実際、これまでに起きた世界的なパンデミックの多くは、密林深くの野生動物との接触によって引き起こされたわけだしな」神とは相当に面倒くさい性格の持ち主らしい。カルロは自分のカップにワインを注ぎ足した。
「人類が滅びを避けるため、ゲノムデザインという手段は悪くないと思うぜ」
だが、今の時代には倫理という巨大で分厚い壁がそびえて立っていた。熟達したゲノムデザイナーであるカルロが如何に熱弁をふるおうとも、何一つ実行には移せないのだった。
「人を超えた存在になることは"罪"なのか? それが身を守るためだったとしても?」
少々呂律の回らなくなった唇を開きながらカルロは隣人を問いただしていた。一方のアーノルドは普段と変わらぬ様子で酔った相手の話を聞いていた。多少のアルコールでは顔に出ない質なのだ。
「神が人を創造した……ならば、それ以外の存在へと自らを造り替えることは、神の意に反する……そう考える者が多いのは事実ではあるね」
見てくれからはわからないが、彼もまた酔っていた。普段なら思っても口にしないようなことが漏れ始めていた。常日頃からこうして二人で飲んでいたが、今日はいつもより酒が深くなってしまっているようだった。カルロが選んだ『ライトボール』も、そのあとのワインも素晴らしいチョイスだった。それにもちろん、自分の調理も完璧だった……これで飲み過ぎるなというのは無理というものだ。
気持ち良い夜風が肌を撫でる。アーノルドは日頃自分の元へ集う連中の顔を一人一人思い出しながら言葉を継いだ。「神の意を知ったかのように振る舞うのは、不遜なことだ。神への冒涜だ……」
人が人のままでは滅びるしかないというのなら、人を超えるモノに成ろうとするのは必然。その努力を神は認めないのだろうか?
アーノルドはワインのカップを手にしたまま半ば眠りに落ちている良き隣人の顔を見た。
人を超える力が人間に備わっているのであれば、それはきっと神も御承知であろう。この世で起こりうる全ては最初から織り込み済みのはず。ゲノムデザインは神の領域に触れるなどとまことしやかに言われてきたが、その技術を花開かせることもまた、人類の設計に含まれていたはずだ。ゲノムデザイナーは研鑽の結果そこまで到達した、いわば人類のトップランナーなのではないか?
もちろん神の思惑、神の計画を人は知ることはできない。なれば、そこには無限の可能性が含まれているとも言えよう。歩みを自ら止める愚は神への侮辱でもある……
アーノルド・オルドマン師もまた、眠りに落ちた。幸いにも今は『ライトボール』が旨い季節。夜風が多少冷えたとて、二人が風邪をひくということもなかろう。