この世界は平面である。そう言ったのは誰だったか……もう何世代も前の人物なのは間違いがないのだが、名前は思い出せなかった。
まあ今となっては誰もが疑うことのない常識であり、とうの昔に事実であると証明もされている。すでに明らかとなった事柄についてあれこれ回顧しても何もうまれない。時間の無駄というものだ。我々にはやるべきことがある。
神々を模した白い衣に着替え、住処を出た。今日も最果ての壁は美しい姿を見せてくれる。外界に源を持つ数多の光が透明な壁によって七色を帯び、目に届くのだ。その彼方を神々の白く巨大な影がゆらゆらと行き来する光景。これこそが、この地が祝福を受けていることの証左に他ならない。我々はこの世界に住まう者として、長きにわたり白き神々の一挙一動を読み取ることで天啓を得、森羅万象を解き明かして大いなる存在へと近づくことを使命としてきた。この世界が平らで、かつ円形であることだけではない。気温が-179.5 ℃から微動だにしないことも把握しているし、大気がメタンと窒素でできていることも知っていた。この世界を取り巻く外界そのものが移動していることもわかっていた……そう考えなければ、説明のつかない物理学上の問題があるのだ。
そして、神々が我々のことを気にかけていることも確実だった。その雄大な白い影を我らの世界に落としながら、彼らは明らかに壁の向こう側からこちらをのぞき込み、観察しているのだ。
そんな時は、我々のほうでも新たに解き明かした真理について報告の儀式を行うのが慣例となっていた。次の報告の時には、私が発見、実証した案件も上奏されることになっている。そう、神に認められるのだ。こんなに喜ばしいことはない。やがては神のことも解き明かし、並び立つ高みへと至る……それが我々の悲願なのだ。あと何世代かかるかはわからないが、我らの背後にはその歩みが刻まれた歴史が横たわっていた。いずれ必ずその時は来る。
「タイタンというのは、ギリシャ神話でいうところの巨神族だ。世界が作られた初期に生まれた古の存在で、主神とされているゼウスたち、オリンポスの神々の祖先にあたる」
「前にも聞いたよ、その話は」
ケプロス・タリスマンは自分に割り当てられた仕事の手を止めることなく、興味なさそうに応えた。しかしアズリエル・チャーマーは相方の様子は全く気にせずに、白い制服の袖を振り上げながら喋り続けた。彼らは二人一組で作業に当たることになっており、いつもこんな感じなのだった。
「そして、僕らが目指しているタイタンの語源でもあるってわけ。そういえば……ギリシャのタイタン族の中に、かのプロメテウスがいるって話もしたっけかな?」
もう15回ぐらいになるかな、とケプロスは口には出さずに呟いた。わずかの間、沈黙が二人の間に流れる。
やっぱりアズリエルは、まるで気にしなかった――いつもどおり。
「人間に火を与えるというプロメテウスの行為あったが故に、僕たちの文明は発達したといっても過言ではない。炎を操ることができてこその冶金術だ。その果てに、今こうして宇宙を進む船も存在する……」
締めの言葉はもうわかっていたので、ケプロスは一緒に言ってやった。「……タイタンへ向かう船に相応しい」
言葉を切り、アズリエルはにやりと笑った。君もわかってきたじゃないかと言わんばかりの顔を見て、ケプロスは少し後悔した。
船は数年をかけて目的地、つまり分厚い大気――その主成分はメタンと窒素だ――を誇るタイタンへと近づいていく。土星を巡るその星へと続く船旅の間、平たいシャーレの状態をチェックすることが彼らの日課であった。アズリエルはここでも神話的観点を持ちこんでいた。彼はシャーレをぐるりと壁に囲われた楽園になぞらえ、被造物が順調に育っていく過程を「創世」と呼んだ。
「ただの有機物の混合体が、予定通り増殖しているだけじゃないか。大げさだな」
ある日、ケプロスはうんざりだと言わんばかりにこぼした。最早何度目だか、数えてもいなかった。
そして相変わらずの様子でアズリエルも答える……ガラス越しにシャーレを覗き込みながら。タイタンについたら、楽園追放が繰り返されるのだと。そして「彼ら」は移住先でも増殖を続け、少しづつタイタンの環境を変えていくことになる。そしていつの日にか、タイタンを人が住める場所へと変えるだろう。
船が目的地に到達する予定日は近づいてきていた。アズリエルは小さな世界をガラス越しに覗き込みながら、感慨深げに独り言ちた。
「……まさしく、かつて神が行ったことをなぞるに等しい」
これももう何度聞いただろうか? ケプロスは一人深いため息をついたが、確かめるまでもなくアズリエルにとっては何の意味もない問いだった。
船はタイタンを周回する軌道に乗った。二人だけではない、もっと大勢の白い神々が、それぞれの被造物を手に-179.5 ℃の大地へと降り立つ。
そして大いなる創造主アズリエル自らの手で、楽園を取り巻いていたガラスの壁は取り払われ、世界は一気に大きく広がった……もう、平らな円ではなくなったのだ。
祝福の民は新天地へと解き放たれた。第二の地球を用意する偉大な仕事のために。
この試みの果ての果ての最果てには、彼ら自身が懐かしき故郷――シャーレの中の、平たい円の世界――を創り出すなんてこともあるのかもしれない。その時には白い神々はすでに久遠の帳の向こう側へと姿を消しているだろう。神が去っているのならば、新たな神が必要とされるは必然。そう言ったのは誰だったか……同じようなことを考える輩が、いつか現れる時がくるに相違ない。