シュリーカー

 酒をグラスに注ぎながら、最近羽振りが良くなったなとマスターは考えた。目の前の席に座っているこの客は、何を生業にしている男だろうか……一発当てたのかもしれない。
 ここは地下酒場『シュリーカー』。秘密のお楽しみ場の一つだ。表向きはどこにでもありふれたただの食堂だが、特定の組み合わせで料理を頼む客が現れたのなら壁の裏側へご案内という仕組みだ。この手の店は禁酒法が幅を利かせてから一気に増えたわけだが、そろそろ潮時だろうというのがマスターの考えだった。いきなり酒が売れなくなって困っていた生産者と、法を犯してでも脳をアルコール漬けにしたいという、どこにでもごまんといる連中。その仲介役が求められたのは当然の成り行きというものだ。『シュリーカー』は最も早い時期から、そんな慈善事業を始めた店だったが、最近は裏酒場も増えすぎた。金に目のくらんだ素人までもが参入してきている……つまり、市場の崩壊はすぐそばまで来ているのだ。警察だって馬鹿じゃない。隙だらけの荒い仕入れをしている連中なんぞ、それこそ一日で根こそぎやられてしまうだろう。
「あんたはいいお客だったから先に言っておくが……来月には店じまいなんだ」
 常連の男に満たされたグラスを出しつつ、マスターは小声で伝えた。相手は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに薄ら笑いを浮かべて酒に口をつけた。
「まあ、このご時世だ……それもしかたない。結構お気に入りだったんだが、別の場所を探すとするよ」
「ここしばらく高めの注文ばかりしてくれてありがとよ。おかげでいい稼ぎになった」
「金の出し甲斐のある品揃えだったのさ。なによりも店の名前が最高だった」
 それを聞いたマスターはへぇと軽く肩をすくませた。
「屋号はメニューにゃ含まれてないんだがな」

 この荒れた時代に治安維持の一環として採用された禁酒法。だが、人はパンのみにて生きているわけではない。ガス抜きの手段を奪われた庶民の生活は荒んでいく一方だ。『シュリーカー』みたいな憩いの場も、もう無くなってしまった。あのマスターのように〝心得た〟輩が先ず見切りをつけ、その後もそれと知らずに危ない橋を渡り続けた不用意な連中が一挙にしょっ引かれていったのはまだ記憶に新しい。
 空気の悪い部屋の長椅子の端に腰を乗せて、手にした新聞の日付に目を走らせる……そう、ちょうど二週間と四日前のことだった。こんなご時世なんであちこちで騒ぎが起きているし、また起きて然るべしだ。そうした混乱に乗して事を為し、うまいこと誤魔化しちまおうなんて奴らもでてくる。おかけでこっちも食いっぱぐれることはないが、入ってくる金の使い道には困る。まあ、贅沢な悩みではあると内心思いながら、もう一度新聞に視線を落とした。「武装治安維持隊『ノイズ』、集団自殺か」とささやかな見出しが出ている。三面の隅っこの小さな記事。今日日、この程度じゃ一面記事には程遠いというわけだ。
「やはり、一杯引っかけたくなるな」
 誰が聞いているわけでもない。声にして出してみたが、乾いた喉がチリチリと痛んだだけだった。仕事の後は、どうしても気晴らしが欲しくなる……哀れな犠牲者の魂に安らぎあれと祈るためにも、酒は最善の選択と言えた。
 だが、『シュリーカー』はもうないのだ。あの店だったら、必要なものはすべてそろっていたのに。
 男は壁に設えた棚を見た。残っている鉢はわずかだった。また手に入れてこないといけない。せめて、真っ当な品を買うことにしよう。それぐらいしか金の使い道はないのだ。

「悪党どもが悔い改めたのはありがたいんですけどね」若い方の警官が言った。
「あそこまで血みどろなのはどうなんですかね。後片づけに誰かが奔走するなんて考えもしなかったんだろうな」
「馬鹿言え」
 今一人の男は吐き出すように返した。「お前、一連の事件が本当に自殺だと思っているのか?」
「違うんですか? だって、どの事件も争ったような跡は全く無いじゃないですか」
「何人もの男が、いきなりブレーカーが落ちたみたいにゴロゴロ死んでいるんだ。食事中の奴もいた。トイレで用を足している奴もだ……そんなのが何件も起きているんだぞ」
 若い男はまたはじまったと頭を掻いた。
「いずれのケースも、事件性は無いとされてますよ。近くに住んでいる連中は誰一人、部外者の姿を見ちゃいません。ただ、かすかな叫び声を聞いて気分が悪くなったってだけです……自殺した連中の断末魔でしょう」
「物色した跡も無いしな」年を食った方がため息をついた。「わかっちゃいるんだ……だが、不自然が過ぎる。こいつは殺人だと、俺の感が言っているんだよ」
 もう一人は口に出さずに呟いた。下っ端警官のまま年を食った男の感がなんだって?
「……ですが、我々にできることはもうありませんよ」

「本当に、本当に大丈夫なんでしょうか? この金が最後の望みなんです。これを払ってしまったら、もう何も打つ手は残されてないのです」
「大丈夫、心配はいりません……必ずや、あなたの願いはかなうでしょう」
 淡々と目の前に積まれた金をカバンにしまうと、怯えた様子の老人を残して女は部屋を去った。後ろめたい気持ちがあるのだろう……何しろ、今交わしたのは殺しの依頼なのだから。

 女は一人、荒んだ通りを横切っていく。決して醜いわけではない。しかも懐には大金を潜ませている……だが、堂々とした立ち振る舞いによって、危険のほうが彼女を避けているかのようだ。事実彼女は、そこらの危険などモノとしなかったに違いない。何しろ何件もの殺人を請け負ってきたような女なのだ。
「そういえば、足りなくなってきたって言っていたわね」
 彼女はふと足を止めた。そして適当な空き家に入り、割れずに残っていた植木鉢を拾い上げると、残っていた土を地面に落とした。再び通りへと出ながら女は考えた……あの地下酒場はもうない。いつものねぐら――あの濁った空気の薄暗い部屋――へ行けば、確実に会えるだろう。それにしても不用心な男だ……『シュリーカー』だったっけ。そんな名前の酒場を好むなんて。この仕事もそろそろ切り上げ時かもしれない。
 相方とは違い、女は用心深かった。全ての交渉は彼女がお膳立てしてきた……あの男一人では、何もできやしない。

 世にのさばる悪党どもは実に生き生きとしていた。時の騒乱に水を得て、堂々と暴力と詐欺に浸っていた。当然、多くの恨みを受けていたが、どうせ間抜けどもは長生きできやしない。それなら自分たちが食い物にして何の問題があろう。むしろ、有効活用してやっていると彼らは考えていた。

「おい、なんだこの鉢植えは?」
 見慣れない植木鉢を見て男は訝しんだ。数えきれないほどいる悪党の一人だ。同じ悪党の部下がすぐに答える。「下の通りで配ってたんでさ。珍しいと思って」
 こんな時代に花を配ってるだって? 男は眉をひそめた。そんな慈善事業の真似事をこの街で?
 珍しいのはその行為だけではなかった。
 小さな鉢に植わっているその植物もまた、あまり知られていない種だった。しかし、誰も花になんて気を配る余裕などないのだ。悪党どもはそれが珍しい花だなんて知りもしなかったし、すぐにそんな鉢のことは忘れてしまった。彼らもまた、生きるために活動し続けなければならないのだ。

 その夜、一つの叫び声が上がった。
 生まれ故郷に帰らんと、そいつは自ら抜け出したのだった。

 二人の警察はまたしても清掃作業に駆り出されることになった。
 悪党どもはその営みをいきなり中断したかのように死に絶えていた。数日遅れて老人は新聞の片隅にあった記事を読み、自分が払った金が無駄にならなかったことを知った。
 辺りの住人たちは何も見てはいなかった。ただ、二、三人だけが叫び声をかすかに聞いたと証言しただけだ。彼らは体の不調を訴えており、あの晩以降、具合が悪くなったのだと語った。

 土だけが入った小さな植木鉢のことは誰も気にも留めなかった。
 どこにでもあるような、ごくごく普通の鉢だったから。

 その時、女はどうしていただろう?
 そう、用心深い彼女は記事を一瞥しても眉一つ動かさなかった。金はいつも通り山分けだった。

 その時、男はどうしていただろう?
 彼はいつもの部屋であの長椅子に腰かけていた。丹精込めて育て、送り出した可愛い子――帰巣本能が芽生えた突然変異種――の戻りを待っているのだ。もう少しすれば、二股の根っこでよちよちと帰ってくるだろう。干からびてしまう前に新しい鉢に植え替え、水をやらないといけない。それがすんだらどうしたものか。是非とも酒が入り用なのだが、今はもう『シュリーカー』はないのだった。さりとて代わりになりそうな場所もあらかた検挙されてしまっていて、もう残っちゃいなかった。  


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