それが一番いい

 ワイズ・ワイズマン博士は高揚と焦燥、そして延々と湧き上がる「やるべきこと」の交通整理を続ける脳髄の熱さに酔っていた。半ば朦朧としながらも、眼球の奥をきゅっと締め、手元のデバイスから目をそらすことなく、諸々の問題を処理していくその精神力は常人のものではない。彼の同僚であり、上司でもあるデゥーヴ・ポポロット博士は常々ワイズマンは天才だと言っていたが、この姿を見れば誰もが頷くだろう。
「オルガノン、今何時何分何秒だい? できるだけ正確に頼むよ」
 ワイズマンの声に、耳障りな電子音が応えた。「当座標時刻で、20XX年7月16日、午前8時34分54秒0076」
 もちろん報告中に該当時刻は過ぎ去っているが、オルガノンは不格好な図体のあちこちについているライトをチカチカさせながら、己の発声開始の瞬間に合わせ、回路のラグをも計算したうえで単位ごとに正しい時刻をかっきりと伝えていた。
「デゥーヴが戻ってくるまでまだ時間はあるってわけだね……いいぞ、行けるところまで行ってしまおう。君がいれば、必ずできる」
 ワイズマンの言葉に、オルガノンも返した。「私の演算能力だけでは無理ですね。あなたの頭脳が私にそれをさせるのです、ワイズ・ワイズマン博士」
 ワイズマンは手元を凝視したまま軽く笑った。「ありがとう、オルガノン」
 彼らがいるのは広いとは言い難いアパートメントの一室だった。ここは世界征服を目論む秘密結社「ネオメテオラ」のアジトだ。組織を構成するのは熱き野望を秘める二人の科学者と、一台の培養ニューロンサーキット、つまりは人工頭脳だった。彼らは外部の者には理解が及ばぬような数多の機械類と、サーキットに接続されたコードの束がのたうつ中で、日々研究に没頭しているのだった。
 デゥーヴ・ポポロット博士の最高傑作である培養ニューロンサーキット、オルガノンとワイズマンは、これまでにも度々大いなる可能性を探る――そして多くの場合には危険をはらんだ――実験を繰り返してきた。ワイズマンの数少ない理解者にして、オルガノンの創造主でもあるポポロットは、時にそれをやめさせる安全弁の役目を負っていた。だが今、不運なことに彼は風邪でダウンしていた。
 額ににじむ汗をぬぐうこともせずに、ワイズマンはオルガノンに全体領域を拡張するように命じた……各文明コロニーの版図が広がり続けているのだ。コロニー同士が接触するのは避けたほうがいい。高確率で壊滅してしまうからだ。複数のコロニーに分布している膨大な個体群の記憶構造因子の種類がたったの14で済んだのは幸いだった。すべての個体がまったくのバラバラであったなら、こうして監視することも不可能だったろう。だが先に述べた通り、ワイズマンの手で創造された生命たちは14のパターンしか持っていない。14種類なら管理は可能だった。この点一つとっても、ワイズマンにしか実現し得ない実験だと言える。
 14の因子パターンは全て実在する人間から――ワイズマン本人やポポロット、それからこれまでに実験に参加してもらったことのある、ご町内の方々だった――復元したものだったが、今ワイズマンが制御している中に該当人物そのままの個体はただの一体とて存在していなかった。まさしく変幻自在……たった14の因子が、周囲の環境と経過時間によって、ありとあらゆる可能性を形作っていくのだ。
 彼らがいじくっているのは、並行宇宙なのだった。IFの世界、選ばれなかった可能性の体現。本来なら分岐によって生まれる宇宙を、彼らは人為的に0から再構成しているのだ。

 ポポロットが風邪を引いたその日、オルガノンを通じて多くの並行宇宙を観察していたワイズマンは、今まさに滅び消えていく宇宙を発見した。蒸発して消えた宇宙が持っていた領域は解放され、新たに生まれた可能性――別の並行宇宙――がそこを占めることを知った彼は、蒸発中の宇宙に介入して延命させることを思いついたのだ。含まれていた情報は全て破棄し、新たにあらゆる設定を構築していく……元素を霞状に拡散させて星々を作り、適度に整えてから生命――復元された14種の人類――を配置する。いくつかの文明コロニーが時間差を持って誕生した。その後もワイズマンとオルガノンの宇宙は順調に発展を続け、今や外部からの介入なしに自己存続できるようにまでなっていた。
「今何時何分何秒だい? できるだけ正確に」
「当座標時刻で、20XX年7月20日、午後6時58分19秒3358」
 デゥーヴ・ポポロットの体調回復が迫っていると、ワイズマンは感じた。急いだほうがいい。この手の実験には常日頃から反対されてきたのだ。ポポロットは自分たちの宇宙に収まる規模の実験には寛容だったが、並行宇宙への介入や、世界の複製などには厳しく反対するスタンスをとっていた。オルガノンはうまいこと隠れて独自の実験をしているらしいが、ワイズマンは作業に集中してしまうあまり、いつも止められてしまうのが常だった。だから、ポポロットが寝込んでいる今がチャンスなのである。
 彼の実験は、安定した宇宙を作ることだけではなかった。この宇宙にしかるべき刺激を与えて速やかに発展させ、未来のデータベースを作ろうというのがワイズマンの計画だった。現時点でも各コロニーはまずまずのところまで再現されていたが、このままでは間に合わない。ワイズマンは宇宙をさらに加速させた……目まぐるしく移り変わる状況の一切を漏らさず確認し続けながら、デバイスを操り必要な修正を加えていく。ワイズマンの頭脳の回転に合わせてオルガノンは大いに働き、日が変わる前にこの新たな宇宙は、観測者が所属するそれを追い越した。ポポロットが現れる気配はない。
「いよいよ未来が、この手の中に顕現する時が来たぞ」
 不眠不休にもかかわらず、ワイズマンの意識はこれまでにないほどの集中を見せ、最も現実に近しいと思われる未来の地球文明コロニーに収束していった。

「警告。時間の乱れを観測。揺れ幅は当座標時刻で、20XX年7月20日、午後8時02分54秒2399から20XX年12月04日、午後9時12分19秒8823」
 オルガノンの声でワイズマンの意識は引き戻された。即座に視界を広げ、観測していた未来宇宙全体の状態を確かめる。彼らの宇宙が、他の並行宇宙と比べ大きく育ちすぎているのは一目瞭然だった。オルガノンが報告してきた時間の振れ幅が示す通り、未来の領域に足を踏み入れたためだろう、これまでにはどの宇宙にもなかった可能性、つまりまったく新たな、独自の分岐宇宙を孕んで膨れ上がり、今まさに新たな宇宙を生み続けていた。今や未来に存在する宇宙は、その数を爆発的に増殖させている。決して無視できない数の宇宙が、未来の時間座標を有しているのだ。
「警告。時間の乱れを観測。当座標時刻で、20XX年7月20日、午後8時05分23秒1085から20XX年12月04日、午後9時45分30秒0500」
 何の感情もなく幾度も流れ続ける機械音声に、ワイズマンはついに泣き声を上げた。
「何とかしてくれオルガノン!」
 その瞬間が迫っていることを、彼は天才であるがゆえに理解していた。このままいけば、遠からず現在と未来の比率が逆転し、主観となる基本時間が入れ替わってしまう。つまり、未来に侵食されるのだ。自分たちが宇宙ごと過去というカテゴリーに属した瞬間、どうなってしまうのか……過去は確定した出来事の集積体だ。干渉不可の領域だ。森羅万象は固定され、変化を失う。何事も成せないとなれば、それは死んでいるに等しい状態に他ならない。その時、絶望に沈むワイズマン博士の耳に、救いの声が響いた。彼がよく知る、耳障りな声だった。
「了解しました、ワイズ・ワイズマン博士」
 一瞬の緊張の後、いくつかの並行宇宙が蒸発した。それらは全て増殖中の未来宇宙だった……時間のブレは徐々に回復し、やがて落ち着いた。未来の宇宙は悉く消え去っていた。

 ワイズマンは安堵の息を長々と吐き、その場に崩れ落ちながら、傍らの培養ニューロンサーキットにどうやって事態を解決したのかとたずねた。
「全ての未来宇宙に介入し、加速させました。あなたが先程までやっていたように」オルガノンはいつもの調子で答えた。「それと、平行してデゥーヴ・ポポロット因子を持つ個体の徹底排除を行いました。ワイズ・ワイズマン因子個体が取り組む実験は、障害がなければ高確率で宇宙に壊滅的な打撃を与えます。あなたが事態を解決したに等しいのです、ワイズ・ワイズマン博士」

 翌日、すっかり快癒したデゥーヴ・ポポロット博士が久々にアジトにやってきた。ワイズマンとオルガノンは適当な実験結果をでっちあげ、ここ数日の報告を済ませた。もしも本当のことが知られたら、怒れるポポロットによってオルガノンはその性能を下げられ……いや、最悪解体されてしまいかねない。そんなことになれば、ワイズマンの頭は湧き上がってくるものを処理できずに破裂してしまうに違いない。秘密秘密。何もなかった。それが一番いい。
 そして今回のことで、ワイズマン博士も多少は――オルガノンの計算によれば今のところ、8%ほど――慎重になった。この宇宙においては総人口の1/14がワイズ・ワイズマンということもない。誇張無しに、宇宙崩壊の危険は当分回避されたと言えるだろう。  


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