自殺行為だとある人は言った。命を無駄にするだけだと。
他の人も言った。人類にとって大いなる損失だ、考え直せと。
しかし、サミュエル・バンクロフト博士は首を横に振った。
ありとあらゆる頭脳的労働に命をささげて数十年。彼は今生における仕事はあたかた片づけたと自負していた。バンクロフトは輪廻転生を信じていると公言していたが、それを以て彼を非科学的だとか、迷信家だとか言うような輩はいない。彼が重ねてきた理論と仮説、発見による証明。その業績の数々がその異端的思想を打ち消して余りある程の高みに達していたのだ。
「いいかい、バンクロフト。君が望む例の実験に身を捧げたとしよう」
「そうだ。僕は絶対やる。それが可能な時代になったんだ。これは天命だよ」
「待て待て。早まるんじゃないぞ……そうするとだ、君が日頃言っている〝来世〟ってやつは未来永劫お預けになる」
「ああ、アトランティスからこっち、古代ギリシャ、アラビア、マヤ、二十世紀……そして今日の宇宙時代まできた。僕はもう、僕の魂が望む全てを成し遂げているんだ。たった一つを除いてね」
「それは正しいんだろう。なにせ外ならぬ君が言うことだ……だが、今はそう思うかもしれないが、まだこの先――正直に言って、私は輪廻を信じてはいないが――新たに君が興味を持つ事柄が見つかる可能性は高い。文字通り宇宙規模で新発見が続いている……人類の知識は増加の一途を辿っているんだから」
しかしサミュエル・バンクロフトの脳髄を支配しているのは、たった一つのことだけだった。
「今、この実験に手を出さずして、次の課題にとりかかる気になんてなりっこないさ」
もう誰にも彼を引き留めることはできなかった。弟子であり、最も近しい友人でもあったクーパーは師のことをよく知っていたから、とうの昔に割り切ってしまっていて、むしろ積極的に協力していた。こうしてバンクロフトは彼にとって必要な性能を持つ宇宙船を用意し、その日へ向けて準備を進めていった。
もう誰にも彼を止めることはできなかった。こうなれば、ただバンクロフトがその想いを遂げることを祈り、永遠の別れまでの間、しばし時を共にするしかないではないか。
そして予定通りその日は来て、クーパーをはじめとする人々に見送られながら、当然のように宇宙船は地球を離れた。バンクロフトただ一人を乗せて。
光速に至った後、亜空間ジャンプを数度繰り返して目指す宙域へと向かう。この時点で既にバンクロフトの体感時間と地球時間の間には大きな差が生まれていた。彼がよく知る人々はもう、誰も生きてはいないだろう。今のバンクロフトには思いもよらぬような新たな未知に挑んでいる、新世代の科学者たちの姿を彼は思い浮かべた。そこに自分はいない……だがそれで良かった。その代わり、彼は彼自身の最後の課題に挑むのだから。
船が亜空間から出て予定通りの座標に到着すると、彼は船の進行速度を調整し、あらかじめ計算しておいた侵入角度に間違いがないことを確かめた。いよいよその時が来た……そう、これからバンクロフトはブラックホールへと侵入するのだ。
あっという間に、後戻りのできたラインを通過した……ごくごく自然にあっさりと。これから起こることにのみ、彼の意識は向けられていた。そう、遥かなる未来の、行き着く先の先のことだ……ついにその領域に、彼は手をかけていた。
あらゆる光が背後へと流れなくなった。超重力によって、今や光も外へ出られないのだ。
同時に時間は引き延ばされた。バンクロフトが今こうやって瞬きする間にも、外ではとんでもない時間が流れ去っている。地球も、もう存在していないかもしれなかった。
バンクロフトの時間は永遠に等しくなった。あとはもう待つだけだ。こうしているだけで、いつか宇宙の終わりを直に体験できる時がやってくるのだ……永劫の果ての果てに。
どれぐらいの時が経っただろう。変化は思ったよりも早く訪れた……少なくとも、バンクロフトの体感時間ではそう思えた。
ついに、あらゆるものの圧縮が始めた……いや、これまでは目に見える変化がなかっただけだ。原子核と電子の間という空間的バッファを使い切り、いよいよ隙間がなくなりつつあるのだ。宇宙の終わりが訪れるよりも早くこうなってしまったのは意外だったが、考慮していなかったわけではない。バンクロフトは自身の変容に心乱されまいと目をつぶった。平静を保つのだ……そうすれば、まだ大丈夫だ。
原子の隙間は畳まれていった。原子核を巡る電子が、隣の原子の電子と衝突しはじめた……いや、考えてはいかん! バンクロフトは雑念を払うように頭を振った。彼の頭と身体はもう既にあらかた圧縮されていて、実際には殆ど動かなかった。
「博士、あなたを含む領域にて重力崩壊が観測されています」
不意にクーパーが語り掛けてきた……もちろんクーパー本人ではない。バンクロフトの記憶の残照だった。
言うな! 言葉にしてはいけない!
バンクロフトは幾重にも折りたたまれているであろう脳の奥底で抗議した。観測してしまえばそれは現実のものとなってしまう。観測されなければ、そうと認識しない限り大丈夫なはずだったのに。彼にはそうならない自身があった。どんな状況になっても冷静さを保っていられるという自負が。だがこんな幻の存在は計算外だ!
「このままでは――」
クーパーの声がさらに続く。やめろ! 認識させるな!
何故今出てくる! 一人にしておいてくれ!
バンクロフトの声にならない精神の叫びもむなしく、淡々と経過を報告する弟子の声は続いた……かつて地球上で行ってきた数多の実験においてそうだったように。己が最後の人類、ともすれば最後の生命体――宇宙そのものの終わりが近づいているのだ。次の生にはもう間に合うまい――かもしれないという無意識化での思いが、他者を必要としたのは生命の本能だった。記憶の再現は完璧だった。完璧すぎた。クーパーは確かにそこにいた。
何も認識しないことで、永劫に圧縮を続けることができたはずだった……彼は強制的に認識させられてしまった。違う。自ら認識したのだ。他人の声を以て、死は確定された……第三者視点による観測による、自死であったといえよう。
どこかで猫が鳴いたような気がした。いや、気のせいだ。死んだ猫が鳴くことはあり得ない。