咀嚼

 薄暗い部屋で、彼女は目の前にある物体を見つめていた。何時間こうしているだろうか……クリニックから帰宅してからずっとだ。すでに日付は変わり、閉め切ったカーテンの向こうに広がる真夜中の街は静まり返っていた。聞こえるのは自分の荒れた息遣いと脈打つ鼓動の音だけだ。去年とはまた違う色合い、凝固具合。肉のようにも、油に塗れた砂のようにも見える。成分の異なる層が表面に模様を作っていて、まるで大理石のようだと毎年彼女は思う……全体の醸し出す独特の雰囲気は、決して美しいものではないはずだが、彼女には世界で一番愛おしく見えるのだ。
 要らぬと判断され、切り離されてしまった一部……私の断片。彼女はついに手を伸ばした。触れた指先に感じる重み。匂い……唇と歯に当たる触感。いつもと変わらぬ味。

「彼女はこの一年、不摂生な生活をしていたようだね」
 クスノキ医師はケースの中の塊を示しながら言った。それを助手のフミカ女史がのぞき込こむ。
「これが今回、マイナちゃんから取り出された不純物ですか」
「うむ……だが、これだけ見ても我々以外の者には誰のものかはわからんだろうね」
 マイナちゃんとはいわゆる時の人、世間の話題を総浚いするほどのアイドルだった。本名メイカ・カサラギ。公式プロフィールによれば18歳となっているが、実際は23歳。女性。いくつかのスキャンダルに見舞われ、この一年はさぞ大変だっただろう。不摂生もそのせいに違いない……しかし、取り出された不純物だけを見れば、その他大勢と大差はないというのが現実だ。アイドルだろうが医者だろうが、政治家も浮浪者も誰もが、生命としては同じ種なのだから。
 原子への分解と再構築という画期的な技術によって、医療技術は飛躍した。あらかじめ健康な状態を記録しておき、分解から再構築を経て余分なものを切り離す。あらゆる老廃物や毒素、病巣にストレスの要因まで排除することが可能となったのだ。肉体が成長しきるまでは施術できないとはいえ、老化への予防もあって人類の平均寿命は大幅に伸びた。今や年一回この施術をうけることは全人類の義務となっていた。
「だがね、肉体の健康が精神のそれと連動しているとは限らない」クスノキ医師はいつもの論調で続けた。
「多くの人間にとって、健康な肉体は健全な精神を育むわけだが、何事にも例外はある。彼女――メイカ・カサラギがそうだ。彼女は自らの一部が切り離され、取り出されることを強くストレスに感じるタイプの人間だ。我々にとっては健康を害する物質に外ならぬが、彼女にとっては大事なものだ。今回も、毒にも薬にもならんレプリカを持ち帰ってもらったよ。患者のケアも仕事の内だからな」
 だが、たとえ他のモノと見分けがつかなかろうが、有害成分の塊であろうとも、コレには特別な価値がある。
 フミカ女史がのぞき込んでいるケースから目を離さずに、クスノキ医師は心の中で呟いた。世の中にはコレがかつて誰かの一部だったという理由だけで、何としても欲しがる輩がごまんといるのだ。彼は違法と知りながら有名人の不純物を何度も闇市へ流していた。特に〝マイナちゃん〟には、毎年いい値が付くのだ。
「では、処分槽へもっていきますね」
 そういってケースに手を伸ばしたフミカ女史を、クスノキ医師は制止した。「私がやっておくよ。日付も変わってしまった……今日はもう上がっていい。疲れたろう」

 ご機嫌ね、先生。
 フミカ女史は医師を見ながら、口には出さずにそう言った。彼が法を犯して私腹を肥やしていることは、ちょっと勘のいい人間だったら誰でも気付くだろう。実際、クスノキ医師を訴えようという動きは度々あったが、その都度彼女は彼の弁護に回り、ありもしない不正をでっちあげて敵に押し付け、排除してきたのだ。全ては今の環境を、二人の信頼関係を維持するために。

 夜が明ける前に家に戻った彼女は、カバンからケースを取り出してカウンターに置いた。そしてシャワーも浴びずにクローゼットを開き、煌びやかな舞台衣装を掴み出した。一分一秒すらも無駄にせず髪を整える。人前では見せないようなメイクをし、そして彼女をよく知る者ですら想像もしないようなアクセサリーで我が身を飾った。それから鏡の中にいる姿を凝視し、小さくうなずいた。彼女は自分が嫌いだった。別の存在に変わってしまいたいとずっと思っていた。もちろん誰でもいいわけではない。彼女にとって、〝マイナちゃん〟こそが理想の姿なのだった。
 一年に一度、何度も繰り返してきた儀式に心臓が高鳴るのがわかる。最初の数年は、闇市で手に入れるしかなかった……今ならそれが紛い物だったとわかる。だって、あの頃はちっとも彼女に近づいているとは思えなかったから。
 メイカ・カサラギの手にあるのは無害な偽物。クスノキ医師が今頃競売にかけようとしているのも偽物。あの金に目のくらんだ愚かな男は自分の手元しか見ていない。まさか施術の最中に、既に紛い物を掴まされていたなどとは想像すらしないだろう。そう、本物はここにある。
 他人の一部を己が血肉とする……これを繰り返していけば、いつか自分の肉体を構成する全てがその人そのものに置き換わると、彼女は信じていた。
 一年に一度、彼女は自身の身体を更新していく。触れた指先に感じる重み。匂い……唇と歯に当たる触感。いつもと変わらぬ味。  


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