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【小説】

 床 屋
2008.4.26
 あ。

 商店街から外れていく路地の奥に、あの、赤青白の回転灯を見つけた。

「あそこでいいか…」

 営業で立ち寄った町の小さな駅前の商店街。夕方の買い物客も姿を消し、黄色い街灯が点々と灯っている。

 通常なら自宅近くのいつもの床屋でいつものように散髪するのだが、もう三ヵ月近く行っていない。
とても行けなかったのだ。

 十年以上勤めた会社が傾いて、今の会社に転職したが、平日はほぼ毎日終電で帰宅、土日も仕事や研修が続く忙しさで、たまに休めたとしても、床屋へ行く気になどなれず、ついつい先延ばしにしていたのだ。

 その結果、私の頭はなかなか凄いことになっていた。
 天然パーマの私の頭髪は、伸びてくると、「長くなる」というより「量が増える」という方向に進む。ある限度を過ぎるとごまかしが効かない、非常に見苦しい状態になるのだ。

 髪の毛がひどい状態になるにつれて、私の人生もひどいことになっていった。

 今日こそ切らなくては。
 いつもの床屋が開いている時間には到底帰宅できない。

 私は赤と青と白の回転する灯りを目指して、八百屋の横の路地に踏み込んだ。八百屋の、太りすぎの店員が私をじっと見ていたが、気にせず進んでいった。

 三十台半ばでの転職。しかも以前とはまったくちがう業種で、私の営業成績はまったく振るわなかった。
いや、正直に言うと、成績はゼロだった。

 上司の厳しい言葉が毎日私の心に突き刺さる。恐らく彼は、私をいびり倒して自ら辞めさせたいのだろう。そんな行為が評価につながるような、そんな会社だということは薄々気付いていた。

 上司の言葉は、営業成績に関することに止まらず、細かい勤務態度から私の定期代の金額、歩き方、そして髪型にまで及んだ。

 奴が私の髪型に目をつけたのはもう二週間以上前だ。
連日の残業で、朝、髪を整える気力も無いまま出社したところ、早速いやがらせの標的になり、多くの同僚の前で罵倒され、営業成績が上がらない原因と決め付けられた。

 私はすぐにでも床屋へ駆け込むべきだったが、忙しさがそれを許さなかった。その時は髪の毛のことなど、まだ優先順位が低いと思っていたのだ。私も、奴も。

 はじめのうちは奴も、いじめのネタがひとつ増えたくらいにしか思っていなかったようだが、私が一向に散髪に行かないのは、自分をバカにしているからだと感じはじめたらしく、奴のいびりはこの数日で、急速にエスカレートしていった。

 今日は、今日こそは髪を切らなくては。

 床屋は路地の先の建物の二階だった。

 一階も何かの商店だったような作りだが、今は営業している様子は無い。

 二階へ続く、幅が狭くて急な階段は、灯りも無く、薄暗くて細長い空間に、カビ臭い空気がこもっていた。

 引き返したくなった私の心に、口元を歪ませた上司の顔が浮かんでくる。

 奴のことを思い出すといつも、細くて長い針を心臓から胃に刺し込まれたような感触を覚える。その感触が私の足を持ち上げた。

 右肩に掛けたカバンを壁にぶつけながら登りつめた左に、床屋の扉はあった。
 カビ臭くて薄暗い空間には場違いな、厚手のガラスの扉。のぞき込んだが、人の気配は無い。こんな時間に客も無く、店の人間も奥にでも引っ込んでいるのだろう。

 自動ドアではないその扉に手を掛けた瞬間、ふと兄の顔が浮かんだ。
 兄は私が高校生の時に死んでいる。交通事故だった。学生のまま、就職することなく死んでいった兄。

 その兄が、小学生の時に床屋の扉に指を挟んで怪我をしたことがあった。

「ドアのガラスに血と爪が貼りついてたよ」

 嫌がる私に兄は何度も話して聞かせた。

 それからその床屋へ行くと、兄の血や爪が貼りついていたのはここだろうか、あそこだろうかという目で扉を見るようになってしまい、しばらくは気持ち悪くてしかたがなかった。

 もちろんこの扉には血も爪も貼りついてはいなかったが、古さからだろう、拭いても取れないような汚れや、細かいキズが目に付いた。


 扉を開くと理髪店特有の、整髪料やらなにやらの匂いが入り混じった独特の匂いが鼻の中にからんできたが、私は店内に何か違和感を感じた。

 なんだか、暗い。

 電灯は点いている。しかし微妙に暗く感じる。
 そのためか、店の設備や、飾られているヘアースタイルの見本の写真なども、古めかしく見えてくる。

 しかし、考えてみればこんな時間に床屋に入ったのは初めてだ。
子供のころから床屋といえば休日の昼間行くもので、ガラス張りの壁の向こうはいつも太陽が道路を照らしていたようなイメージがある。この時間の床屋はこの暗さが普通なのだろうか?

 それとも最近のコンビニエンスストアなどのヤケクソのような明るさに目を慣らされて、必要な明るさがわからなくなっているのだろうか。
店の人間も髪を切るのに不自由な暗さにはしないだろう。

 それにしても。
私が店に入っても誰かが姿を現す気配は無く、店内は静まり返っていた。気付かれなかったのだろうか?

「おめぇは世界っいち影が薄い男だからな」

 上司の言葉が浮かんで胃がチクンとなる。

「すいませーん」

 薄っぺらなカーテンで仕切られた奥の部屋に声を掛ける。
 無反応。

「はぁん?何言ってンだか全っ然聞こえねぇんだよ!」

 チクン。

「すいませーん」

 少し声を大きくして呼びかける。

 ……

 え?

 カーテンの向こうから、カサコソとわずかに人の声。ほとんど聞き取れないが、「座って待て」というような意味に聞こえた。

 順番待ちの安っぽいソファの上にカバンを置き、隣に腰掛けようとすると、また奥からカサコソと声がした。

 あっちの、髪を切る椅子へ促しているように聞こえた。
 そうか。そうだよな。他に客がいないんだからあっちの椅子で待てばいいんだよな。

 私は上着をカバンの横に置き、一番手前の椅子に座った。

 正面の鏡に私の姿が映る。髪型がなんとも言えない形状になっているのは予想通りだったが、こうしてあらためて見るとずいぶん疲れた顔をしている。

 この半年ほどのことを考えればそれも当然か。新卒で入った最初の会社は、給料こそ安かったが、のんびりして働きやすかった。まぁそれが業績を悪化させた原因のひとつだったのかもしれないが。

 今の会社は厳しいが(チクリ)、いやな職場でもここで働いて家族と生活してゆくしかない。
三十台半ばで妻子持ちというのはそんなに身軽ではない。転職活動もまた厳しく辛いものだった。

 カサコソ。

 カーテンのむこうでまた声がした。

 カサカサ、コソコソ。

 二人が会話しているように聞こえるが、言葉はまったく聞き取れない。いずれにしろ私に向けられた言葉ではないようだ。

 カサカサ、コソコソ、カサカサ、コソコソ、カサカサ、コソコ…



 ………

 …シャカ、シャカ、シャカ
 いろいろなスポーツをやっていた連中が集まってきて野球部を作る。
 シャカ、シャカ、シャカ
 主人公はたしか…、そう、空手をやっていたんだ。オンボロの空手道場でおじいちゃんと暮らしていたっけな。

 シャカ、シャカ、シャカ
 耳の後ろの髪にハサミが入っている感触。
 シャカ、シャカ、シャカ
 いつの間にか眠っていたようだ。子供のころ床屋で読んだマンガの夢を見ていた。

 あのころから床屋の椅子に座るとすぐ眠くなったっけ。
 それにしてもひどく疲れているようだ。眠いという感覚も無いまま眠ってしまったようだ。
 それに。
 目が開かない。どうしても。

 シャカ、シャカ、シャカ

 目を閉じている分、髪を切られる感触を強く感じる。
 そういえば。誰だ?私の髪を切っているのは。私はこの椅子に座って、それから…。

 シャカ、シャカ、シャカ

 覚えてない。
無意識のうちに店員に髪型を指定したのだろうか?
まったく記憶が無い。
これは危険なくらい疲れているのかもしれない。目を開くことも、体のほかの部分を動かすこともできない。まるで体だけが眠っているようだ。

 店員の手が私の頭の向きを変える。

 シャカ、シャカ、シャカ

 切られた髪が頬をかすめて落ちてゆく。癖のある髪が、転がるように落ちてゆく感触がわかる。

 シャカ、シャカ、シャカ
 シャカ、シャカ、シャカ

いいや。

切ってくれ。
このまま。
短く。
できるだけ短く。
しばらく床屋に来なくていいように。

 私は、ハサミと店員の手の感触を感じながら、また眠りの領域に戻っていった。

 彼らは野球部を作って甲子園を目指す。それから、それから…どうなったんだっけ?

 シャカ、シャカ、シャカ

「あんなチームが甲子園に行けるわけないじゃん」

 中学生の兄が小学生の私に言う。兄も同じ床屋で同じマンガを読んでいたのだ。
 主人公たちに感情移入していた私は、兄の言葉を否定したかったが、表面では同調していた。

「そうだよね。あんなチーム」

 ゾゾゾ、ゾゾゾ

 あお向けにされた私は顔を剃られていた。相変わらず目は開かない。  顔も見ていない店員のカミソリが私の顔をなぞってゆく。あご、頬、こめかみ。

 ゾゾゾ、ゾゾゾ

 店員の冷たい指先が私の額を軽く押さえつける。
 開かないまぶたの上にカミソリの刃が当てられ、眼球に沿うように、まぁるく、ゾゾゾ、ゾゾゾ、ゾゾゾ。

 兄の棺を囲んでいる沢山の生花や回り灯篭。
きれいな飾りつけの向こうは死の世界につながっている。

両親や親戚の涙。
兄の死に顔。
線香の匂い。
そしてそれでも消せない匂い。

何かの裏側から漂ってくる、あの匂い。詰め物をされた兄の鼻。

 カサッ

 後ろでかすかに声がした。
 終わったようだ。
 ならば。起きなければ。

 私は眠っている体に少しずつ力を入れ、指先を動かし、苦労して、時間をかけて、貼りついたようなまぶたを持ち上げた。



 真っ暗だった。

 いや。目を凝らすと、外からの明かりで、かすかに店内の様子が浮かび上がってくる。

しかし、店の電灯はすべて消えていた。
店員の姿も無い。

そして匂いが。床屋特有の例の匂いがまったく消えて、今では、ここへ登って来た階段で嗅いだ、あのカビ臭い空気が充満していた。

いや、あれをもっと濃くしたような、鼻腔をふさいでしまうかのような。
乾いているが濃密な匂い。

 一体…
 前に身を乗り出して鏡を覗き込むと、さっぱりと髪を刈られた私の姿が映っていた。

 一体…

「すいま…」

 カーテンで仕切られた奥の部屋に声をかけようとして、思いとどまった。
 あの向こうに、いる。

 カサコソカサコソ

 また例の声。

 カサカサカサカサコソコソコソコソ
 カサカサカサカサコソコソコソコソ
 カサカサカサカサコソコソコソコソ
 カサカサカサカサコソコソコソコソ
 カサカサカサカサコソコソコソコソ

 ふわり。カーテンがふくらんだ。そして…あの匂いが。

 兄の葬式で嗅いだ、あの、線香の匂いの裏側から漂ってきたあの匂いが、私を包み込むように迫ってきた。

 私はあわてて息を止め、飛び上がるように席を立ち、カバンと上着をわしづかみにすると、ガラスの扉を押し開け店を出た。

両側の壁にカバンや体をぶつけながら転がるように階段を駆け下り、通りに飛び出すと、肺の空気を全部吐き出してから深く息を吸った。
冷たい空気が胸を満たす。

 外はすっかり夜の闇であった。目の前に床屋の回転灯が立っている。
明かりが消えた赤青白の回転灯が。
そして、厚いガラスに大きな割れ目が入っている回転灯が。

 見るな。

 反射的に上を、私が散髪した床屋がある二階を見上げようとした自分を止めた。

 見るな。見てはいけない。ただここを立ち去れ。

 私は小走りに、入ってきた路地を逆戻りした。すでに閉まっている八百屋の横を抜けようとした時、一人の男が声をかけてきた。

「あんた、今あそこの…」

 でっぷり太った、色つやのいい男。私が路地に入って行くのをじっと見ていたあの男だ。

 言葉を続けようとしていたが、かまわず通り抜けた。
 何も聞きたくない。
 聞いてはいけない。

 私は今、死の匂いから逃げてきたのだ。ここで捕まるわけにはいかない。
 どんなにみじめな仕事に就いていたとしても。

 ひと気の無い商店街を私はひたすら逃げ続けた。
【説明】
あちこちに書き散らしたものを集結させようと試みています。
パソコンを変えるたびにいろんなものが無くなっているので。

これは「ネット出版局ゴザンス」というところに、2003年の11月に投稿したものです。
少々手を加えてます。
改行とか多くなってます。

主人公、転職してますね。
これを書いた3年後に自分が転職するとは想像もしていませんでした。

「転職活動もまた厳しく辛いものだった。」

とか言ってます。
その通りでした。

兄が床屋の扉で指をケガしたのは実話です。
ガラスにツメが貼りついたと言って私を嫌がらせたのも実話です。
私の兄は死んではいませんが。
実家で元気に暮らしてます。

出てくる漫画の話は、荘司としおの漫画でそんなのがあったと思います。
多分『うなれ熱球』だと思います。
読んだのは床屋ではなくて自分の家でしたが。
番長みたいなやつがサインを無視して打ってしまい、甲子園に行けなくてみんながっかり、って話が印象的でした。
記憶違いだったらごめんなさい。

この男、この後どうなるのでしょう?
元気に明るく生きていってほしいものです。


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