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大東京危機一髪!!

2002.9.20



 いや、夢の話なんだけど、ちょっと面白かったから書いとこうかなっと。

 昭和三十年代だろうか、古〜い感じのお茶の間に、私と博士(うぷぷ)と、その娘が座ってテレビを見ている。全体的に白黒。
博士は若き日の石原裕次郎をちっちゃくして、ずっと素朴にしたような外見で、その娘というのは「ゴジラ」の第一作に出てきた山根博士の娘みたいな清楚な美人だ。
突然、「巨大こうもり男」と「巨大トカゲ」と「巨大コンドル」が東京に現れたというニュースが始まった。

 驚いて三人で見ていると、生中継の映像が流れ出した。
ビルの上をこうもり男と巨大トカゲと巨大コンドルが行進していて、それをサーチライトが照らしている。特に暴れている様子は無く、ただ歩いている。密集したビルの屋上から屋上へ、ちょっと遠慮がちに歩いている。
巨大生物たちの輪郭に、どう見ても合成しているような影がくっきり出ていて、私は「ちゃちい特撮だなぁ」と思いながら見ている。昔の特撮映画を見ながら自分も出演しているような感じだ。
博士は「こうもり男と巨大コンドルは飛べるのに飛ばないのはおかしい」と、私とは違うポイントが気になっているようだ。

 場面が変わって、悪い博士(うぷぷのぷ)の基地が映し出された。高層ビルをねじって、外壁全体に電飾を施したようなものすごい外見だ。カメラは地下に降りて行き、悪い博士が作った悪い巨大ロボットを映し出した。目玉がでかい電球で、手足はぶっといコイルのような外見だ。頭でアンテナがグルグル回っている。足をふんばって威張って立っているが、レトロな外見のおかげで、かわいらしく見えてしまう。

こんな感じ(思い出し描き)

 突然巨大ロボの目玉がビカァーっと光り(ピカーじゃなくてビカァーね)、両腕を振り上げ、下半身から火を噴いて上昇を始めた。
「東京へ向かうのだ!」博士は焦りながらも解説してくれる。
その後、ロボ対巨大生物連合軍の戦闘が始まるのだが、その場面はなぜかシルエットになってしまってよく見えない。
 コンドルが飛行しながらくちばしでロボの頭を突く。こうもり男はトカゲを抱えて飛び、トカゲが尻尾でロボを攻撃する(すべてシルエットから判断)。
「そうか、この時のためにやつらは飛ばなかったのか。かなり知能が高いぞ」博士が分かるような分からないような解説をしてくれる。

 戦いは巨大生物たちの勝利に終わり、彼らはまた行進して東京湾へ去って行った。東京に再び平和が訪れたのだ。
博士が突然、「こうして平和がやって来ました」と語り始めた。手にはマイクを持っている。
「明日からはみんな、いつもの暮らしに戻るでしょう。大人は仕事に、子供たちは山手線で学校へ行くでしょう」
私はこの、「山手線で学校へ」というセリフがものすごくおかしくて、ゲラゲラ笑い出してしまった。
 笑い続ける私をまったく気にしていない博士が台所へ行って牛乳を飲み始めた。
それがまたおかしくて、私はさらにゲラゲラ笑い続けた。
ゲラゲラゲラゲラ笑い続け、苦しくなったところで目が覚めた。
隣で妻が普通に眠っていたので、実際に声を出して笑っていたわけではなかったようだ。

 四十才を過ぎて「ロボと大怪獣おおあばれ」みたいな夢を見る精神構造もどうかと思うけど、しかし笑ったなぁ。

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オチョコさん出動!

2002.9.7


 
 夏はあつあつシーズンであるとともに台風シーズンとも呼ばれている。
本土直撃とでもいうことになれば、テレビのレポーターはカッパを着込んで、暴風雨の中で決死のレポートだ。
「わざわざそんなところでレポートするなよ」と、お茶の間から突っ込みを入れられるのも夏の風物詩といえよう。
 しかし今回は主役である決死のレポーターではなく、その背景映像の秘密についての話である。

 台風接近を伝えるニュース映像といえば、打ち寄せる高波、強風に枝をしならせる大木、川のようになった道路を水煙を舞い上げて走る自動車、そしてなんといっても、オチョコになった傘を、それでも差しながら歩いている一般市民、である。
 お茶の間から「そんなにまでしてどこ行くんだよ」と突っ込まれる彼、または彼女である。
私はあのオチョコの一般市民はテレビ局の「仕込み」じゃないかとにらんでいる。

 そもそも私は、すべてのテレビ映像にヤラセ疑惑の視線を向けるのを生き甲斐としているが、理由はそれだけではない。
 一般人にも「肖像権」などという言葉が浸透した昨今、無許可であんな映像を流してただで済むわけがない。
 もしも私があんな姿を全国に流されたら、恥ずかしくて外を歩けない。絶対に放送を許可しないし、放送されたら訴訟も辞さない覚悟だ。
 ニュース映像でオチョコ姿をさらしている人物。私は、あれこそ「オチョコ俳優」であると確信している。

 日本列島に台風接近の報が伝えられるや、テレビ局では特別体制が組まれる。
的確な報道のために、台風の強さや速度、進行方向などを分析して、綿密な計画が練られる。ロケ地、レポーターが選ばれ、報道の時間帯が決められ、ちゃくちゃくと放送体制は整ってゆく。そしてあわただしい放送局内で誰かが言うのだ。
「オチョコさん一人仕込んどいて!」
オチョコさんというのはもちろん、「オチョコ俳優」の業界用語である。
今日は6時のニュースで丸の内の様子を伝える予定なので、サラリーマン風のオチョコさんが選ばれた。
 須田耕二、四十八歳。白髪まじりのややがっちりした体格。見た目は中小企業の課長補佐だが、役者歴三十年のベテランである。
 高校卒業後、役者を志して香川県から上京、小さな劇団に所属してこつこつとキャリアを積み上げてきた。
最近では二時間のサスペンスドラマの死体役を見事に演じたり、釣りバカ映画に釣り人として背中だけ出演したりと、華々しい活躍である。
 しかしなんといっても彼の役者としての真価はオチョコさんの演技にあった。
「台風接近、首都直撃か?!」
テレビのニュースでその一報を耳にした須田耕二は、一人暮らしのアパートでコーヒーカップを片手に演技プランを練り始めていた。
 ちなみに彼の好みは「モカ」のブラックであったが、諸事情により今は、スーパーでバカみたいに大きな袋で売られているブレンドコーヒーであった。同じメーカーの同じ色の袋を買っても、いつも味が違う、アタリハズレのある、福袋のようなコーヒーであった。
 今回はかなり「ハズレ」で、袋に残る大量のコーヒーが須田耕二の目下の憂鬱の種であったが、「台風接近」の報に、そんな事はどうでもよくなっていた。
目の前には三本の傘。
ビニール傘、折り畳み傘、黒い大き目の傘。
台風の速度はやや遅めである。一般市民は雨に備えているはずだ。
「これか…」
折り畳みやビニールのオチョコは、コツさえつかめば素人にもできる。でもこいつは…。
須田耕二が役者魂に火をつけて、黒い大きな傘を手にしたその時、須田の部屋に映画『野生の証明』のテーマ曲が鳴り響いた。
須田はゆっくり三つ数えてから携帯電話を手に取った。

 午後五時三十分。関東地方が暴風雨圏に入った。首都直撃である。
横殴りの雨。カッパを着込んで頭のあたりを押さえながら声を振り絞るレポーター。
フレームの外で風向きを見ながら待機する須田耕二。すでに周囲を百メートルほど歩いて、暴風雨の中の通行人としての濡れ具合は出来上がっている。濡れて縮れた髪が額にかかる。
 レポーターが振り向き、町の様子を詳しく伝え始めた。出番だ。
レポーターの背後を横切る須田耕二。画面中央に差し掛かった瞬間。
大きな黒い傘は見事にオチョコになる。
「ああっ!ちくしょう!」という表情をカメラは見逃さない。風に逆らって歩き続け、フレームの外に出る須田耕二。
出番は終わった。その間約六秒。

「お疲れ様でーす」
須田耕二は自分で自分に声をかけ、自分で用意したバスタオルで濡れた頭を拭く。
もう誰も須田耕二を見ていない。

 帰宅後、発泡酒を片手に、セットしてあったビデオを見る。
六時のニュース、九時のニュース、十一時のニュース。
須田のオチョコは都合三回放送された。
他の局ではOLオチョコ女優が出演していたが、その映像を見て須田はにやりと笑みを浮かべた。
「ふ、ビニールか…」
 いつもは一日一本と決めている発泡酒を三本空け、ビデオのラベルにマジックで「2002年8月10日台風15号」と書き込み、床に就いた。
 眠りに落ちるまでのひととき、須田耕二の頭の中には、番組中の気象予報士の言葉がこだましていた。
「今年は台風の当たり年ですね」
「今年は台風の当たり年ですね」
「今年は台風の当たり年ですね」
「今年は…

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ハニハニハニムーン

2002.9.4

前 編

 日本人は結婚すると様々な土地へ新婚旅行に出かける。
グアム、サイパン、エジプト、オーストラリア。そして小豆島。
西暦1989年に結婚した我々夫婦が新婚旅行先に選んだのが、小豆島であった。
あこがれの小豆島!
『二十四の瞳』で有名な小豆島!
他に何があるのかな小豆島!


 西暦1989年9月吉日。ハート型の目で見つめ合う二人を乗せ、時速250キロで新幹線は西へ向かった。
完成して間も無い瀬戸大橋を渡り、高松で一泊。翌朝フェリーで小豆島へ出航、無事上陸した。
 無事上陸した、が、さて。
午後からは観光バスで島内一周という豪華ツアーが待っているが、午前中はフリーだ。
昼食にも少し早かったので港の周りを偵察することにした。
「あれが今晩泊まるホテルだね」
「そうだね」
「道があるね」
「あるね」
「家があるね」
「あるね」
 周囲の偵察を終えた私たちは目についたおみやげ屋に入ってみた。
ところが店内は薄暗く、本来おみやげが陳列されているべき棚にはなぜか大きな布がかけられていて、何も見る事ができない。
 これは一体どういう状態なのだろうと立ち尽くしていると、奥から若い男が黙って出てきて、私たちと目を合わせないようにしながら、みやげ物にかけられていた布をバサッバサッとタタミ一畳分ほどめくると、無言のまま、また奥へ引っ込んで行った。
 見られるようにしてくれたのはいいが、なぜ一部だけなのか?めくられなかった布の下には何か見られてはいけないものでも隠されているのだろうか?
とにかく。
我々に、タタミ一畳分だけ閲覧権が与えられたと判断すべきなのだろう。
薄暗いままの店内で、私たちは公開されたスペースのまんじゅうやらクッキーやらの箱を手にとって、ながめたり、ひっくりかえして賞味期限を調べたりした。
まんじゅうはまんじゅう、クッキーはクッキーであり、賞味期限にも特に問題は無いことを確認して店を出た。
あの男がまた出てきて布をかけ直すのだろう。ひょっとしたら舌打ちなんかしながら。

港を飛び交うカモメ、よせては返す瀬戸内の波。
それを見つめる愛し合うふたり(当時)。
飛び交うカモメ、よせては返す波。
見つめる愛し合うふたり(当時)。
とびカモ、よせ波。
ふたり(当時)。
私たちは昼食をとることにした。

 港で一番の、というか唯一の“食堂”に入り、妻はカレーライス、私はカツカレーを注文した。
スプーンが水のコップに入れられて出て来た。
あっという間に出てきたカレーライスを大事にゆっくり食べ、人もまばらなその食堂でコーヒーまで頼んでみたが、バスの発車時刻まで、まだ一時間ほどあった
 丸イスに腰掛け、カップを置くたびにガタつくテーブルで時計をながめている二人。
大事に飲んでいたコーヒーも、やがて飲み終わってしまった。
 二人いっしょならどこでも幸せな私たち(当時)とはいえ、いささかもてあましてきた。
やがて妻がぽつりと、
「…バス乗り場でも行ってみようか?」
そうか!その手があったか!
バス乗り場にはまだ行ってなかったぞ!
バス乗り場に行けば何かがあるかもしれない!
我々はこのプランを実行に移した。

 バス乗り場にはバスがあった。
妻が窓口で訊いてみると、我々の乗るバスもすでに来ていて、乗り込んで発車を待つことを許可する、ということだった。
 発車までまだ30分以上あったが、誰も頼る者もいないこの見知らぬ土地で、あと30分も過ごすのは危険と判断した私たちは乗車して待機することにした。
 そんな時間にも関わらず、バスにはすでに他の客が乗り込んでおり、私たちは四組目だった。
 おだやかそうな初老の夫婦、専門学校(推測)の、仲良し女の子コンビ、二人ともケバい感じの中年不倫(多分)カップル、そして、幸せいっぱいの新婚さん(私たち)の四組は、ほぼ等間隔に散開して発車を待った。
 5分10分と、時間が過ぎていったが、私たちの後に乗って来る客はいなかった。
「これだけだったりしてね、客」と、妻に冗談を言ってみたりしたが、20分30分と過ぎても、乗客は8人のままだった。
 やがてバスガイド(というより車掌さんと呼びたい感じの人)と、運転手が、なんとなくベタベタした感じで乗り込んで来て、とうとう発車してしまった。
 50人乗りの観光バスに四組八名様の客。ぜいたくなんだか寂しいんだかわからない状況に、私たちはおかしくて、笑いをこらえた。

 そのツアーは、島内の観光スポットを1ケ所30分の停車時間で何ケ所か回るというものだった。1ケ所30分というと、あわただしいような感じがするが、実際は「こんな所で30分も何をしろッてんだよ」と言いたくなるような所ばかりだった。
 さらに驚いたのは、どこへ行っても我々8人しかいなかったことだ。
私たち二人と専門学校二人組は暗黙のうちにお互いカメラのシャッターを押すチームを組み、どこへ行っても、あいまいな笑顔でカメラを手渡し合った。彼女たちもこのツアーのわびしさとおかしさを感じていたんだと思う。
 唯一、「何とかの鐘」のある丘に、ツーリング中のライダーたちがいたが、それも、鐘を見に来たというより、ひと休みしている感じだった。

 そんなツアーにも一応、クライマックスは用意されていて、それが「孔雀の大飛行」であった。ガイドさんも「これは見ておいた方がいいですよ」なんて言ってたような気がする。
そこまでのいきさつから、私は別に期待はしていなかったが、心の奥深いところには、手塚治虫の『火の鳥』のような光景が浮かんでいた。
私はおろか者だった。


後編につづく

休憩タイム

 なんだか長くなっちゃったので、休憩タイムです。トイレに行く方はこの時間にどうぞ。

みなさんにとって新婚旅行とはどんなものなのでしょうか?とりあえず選んでみてはいかがでしょうか。
もう、人生のクライマックス!気合いれまくり!
新婚旅行さえ幸せなら後の人生なんてどうなったって構わないわ!
愛する人と一緒にいられれば場所なんてどこでもいいのよ。
人生そのものが旅なのよ。
なぜ、おねぇ言葉なのよっ!
こんな質問意味がないのよっ!
「人それぞれ」ということがわかりました。
それでは後編をどうぞ。

後 編


 「孔雀の大飛行」会場は、いってみれば、ミニミニ動物園だった。
サルがいた。
元はハデな色だったであろうくすんだ色のトリがいた。
ブタがいた。
それから…サルがいた。…ウシもいたかな…
えーと、あとは、そうそう、サルがいた。

 しかし、ここのメインはあくまで「孔雀の大飛行」で、バスから降りたとたん、「あと15分で孔雀の大飛行が始まります」と、音の割れたスピーカーのアナウンスで告げられ、園内を見ている間にも「あと10分です」「あと5分です」と、こきざみに放送は続けられた。
やがて「もう始まるからすぐに見に来い。見ないと後悔するぞ」というような内容の放送になったので、大飛行が行われるという会場へ向かった。まったく期待はしていないが、なにしろ他に行くところもないのだ。

 そこは幅20m、長さ50m位の芝生の斜面で、頂上に大きな鳥小屋のようなものが建てられていた。
「みなさま、『孔雀の大飛行ショウ』へ、ようこそ」例のスピーカーがしゃべり始めた。
「孔雀は元来飛ぶ事はありません。それを当園では、長年の訓練により、このショウを実現しました。ごゆっくりごらんください」
壮大なクラシック音楽が(音の割れた)スピーカーから流れ始めた。
 斜面の頂上の鳥小屋から孔雀たちが現れた。一羽、二羽、…。小屋から出た所はいきなり斜面なので孔雀達は翼を広げる。三羽、四羽…。翼を広げた孔雀は滑空する。
孔雀のガンバリ度によって、4、5メートルから10メートルくらいだったろうか、『大』『飛行』していた。
時期が悪いのか、孔雀の羽もくすんでいて、孔雀にすら見えない。
 音の割れたクラシック音楽が盛り上がって行くのに反比例して、その場の空気が重くなっていくのがはっきりと感じられた。
五羽、六羽…。着地した孔雀は、思い思いに歩いたり、地面をつついたりしている。
孔雀の登場が途切れたので、「あれ?おしまい?」と思って鳥小屋のほうを見ると、まだ孔雀の影が…。
そして私は見てしまった。
鳥小屋の裏から竹ボウキのようなもので残った孔雀をつついて追い出しているおじさんの影を。
残っていた孔雀は特にやる気が無いやつらだったらしく、ほとんど滑空しないまま、斜面の頂上近くで「おっとっと」という感じで踏み止まり、まわりをキョロキョロ見回していた。
それでおしまいだった。
 見物客たちは皆、沈黙のうちにバスへ戻り始めた。大飛行エリアで勝手気ままに、首をカクッカクッとかやっている孔雀たちがわびしさを増幅した。
 あいつらまた集められて竹ボウキで追い出されるんだろうか?孔雀を集めるおじさんたちの姿を思い浮かべると、さらにわびしくなった。

そして。バスは疲れ果て、無口になった8人の乗客を乗せ、帰路についた。
夕焼けが美しかった。
海がキラキラきれいだった。
この島に妙な観光スポットなんかいらないんじゃないのかなぁ、と、ぼんやり思っていたら、ガイドさんがいきなり歌い始めた。いや、本当はいきなりではなかったのだろう。何かずっとしゃべっていたから。私が聞いていなかっただけだ。
ガイドさんは、いかにもバスガイドです、という歌唱法で、題名も知らない歌を歌っている。
こんな歌もいらないな、と思いながら聴いていた。
歌い終わると八人分の拍手がパラパラ鳴った。
ガイドさんもつまらなそうだった。

 ホテルに着き入浴。風呂から上がると、すぐ夕食の時間だった。
夕食は一階の大食堂。
昼間のガイドはしきりになんとかビーチの素晴らしさを話していたので、どうやらここは夏が観光シーズンなんだということがわかってきた(知らないで来ている私たちもどうかと思うが)。
「シーズンオフなんだねぇ」なんて話しながらひと気のないホテルを大食堂へ降りていくと、そこにも見事にシーズンオフの光景が広がっていた。

 何百人も入れそうな大食堂には客の姿はなく、真ん中あたりのテーブルに二人分の食事だけが用意されていたのだ。
テーブルにはごていねいに私たちの名前の札があったので迷わず席に着くことができた。
いたれりつくせりだ。

 大食堂で二人だけの晩餐が始まった。
「やっと二人きりになれたね」という冗談もむなしく響く。
はるか彼方に黄色いエプロンのウェイトレスさんがいる。
ビールを頼もうと手をあげると、小走りに駆けてきた。
何だか申し訳ないような気がしたが、当時の私たちはけっこう飲んだので、何度もビールを頼んでしまった。
そのたび小走りにやってきては、また所定の位置に戻るのだ。

 ところがしばらくすると、私たちから微妙に離れたテーブルに食事の用意が始まった。
それも三十人くらいの団体席の準備だ。
「なーんだー、他にも客がいるんじゃーん」
私たちは安心して食事を続行した。
やがてドヤドヤと団体さんが到着して宴会が始まった。
スピーチやら乾杯やら、滞りなく進んでいるようだった。
聞くともなく聞いていると、今日は役所のソフトボール大会だったようだ。
そういえば、この島に上陸してからこんなに大量の人間を見たのは初めてだった。
やっとにぎやかになって、私たちも落ち着いて刺し身の盛り合わせを追加したりして、いい感じで酔っていった。さすがに刺し身はうまかった。
ところが。
三十分ほどたったところで、団体さんたちが撤収を始めてしまったのだ。
私たちは顔を見合わせてしまった。
宴会というものは二時間かそこら続くものだと思っていて、こっちも(関係はないけど)そんな心構えでいたのだ。
 しかし、彼らの宴会はホントにもうお開きらしく、全員、サーっと引き上げて行ってしまった。サーっと。

 大食堂にはまた私たちだけが取り残された。
ついさっきまでにぎやかだっただけに、二人きりの寂しさがひしひしと迫って来た。
私たちは残っていた料理を平らげると、そそくさと部屋へ戻った。

 翌日の朝食も大食堂であったが、行ってみると、そこにはたった一人、出張中のサラリーマン風の男が、つまらなそうにモーニングセットみたいのを食べているだけであった。
まぁ、そんなことにはまったく驚きもしなかったが。

 私たちはその日のフェリーで岡山に渡り、そこら辺を観光した後、帰路に就いた。
こうして私たちの一生に一度の、楽しい新婚旅行は幕を閉じたのであった。

 小豆島の名誉のために付け加えておくと、ここはやはり、夏の海水浴シーズンに行くべき場所らしい。
また、ネット上で検索したところ、見覚えの無い、面白そうな観光スポットがいくつか紹介されていた。
すべては、新婚旅行にも関わらず、ちっとも気合の入っていない私たちの責任なのだ。
だいたいなぜ小豆島を選んだのかさえ、二人ともまったく記憶に無いのだ。
しかしただひとつ確実に言えるのは
「シーズンオフの観光地はとてつもなく寂しく、そしてむなしい」
ということだ。



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夢の有名人

2002.8.5



 時々有名人が出てくる夢を見る。
 古くは長州力が現われ、私と二人で猪木越え(懐かしい響き)について熱く語り合った。
 ビル・ゲイツが、友だちの疲れたお父さん役で登場したこともある。友人の家でゲームをやっていると、ものすごーく疲れた感じでビル・ゲイツが帰宅して来て、私が友人に「お父さんすごく疲れてるみたいだね」と言うと、友人が「ビル・ゲイツだからね」とあっさり答える、という夢だった。
 『リング』の貞子がヘビみたいにのたくって私を追いかけて来たこともあった。死ぬほど怖かった。
 最近ではワールドカップ開催直前に中田ヒデトシが現われ、「お前はもっと積極的なサッカーをやらなきゃダメだ。遠慮してちゃダメだ」と説教された。
私が「サッカーやるの初めてなんです」と言うと、心底うんざりした顔をして立ち去ってしまった。
 そして、一番最近(いちばんさいきんって、言葉ヘンかな?)現われた有名人がこの人。
叶キョーコ様。

 私が一人で閑静な住宅街を歩いていると、20メートルほど先に叶キョーコが現われた。
 遠目にも叶キョーコとわかる叶キョーコだった。
「叶キョーコだ」と思いながら歩いていると、叶キョーコは突然ガイジンの女がやるような空手のかまえ(手のひらが反り返ってワキがあいているようなかまえ、チャーリーズ・エンジェルみたいな)をしたかと思うと、「きぃいえええええええええええっ!!」と奇声を発しながら私に向かって走って来た。
 それがまた、足はすごい勢いで動いているのに、上半身はまったく動かないという不気味な走り方で、目は私をにらみつけている。
あぶない!
私はその不気味さにビビりながらも身構えた。
 叶キョーコはそのままの勢いで私に襲いかかって来た。
半身になった私は、叶キョーコの右チョップを右手で受け、そのまま背中にねじり上げ、左腕を叶キョーコの首に回した。
プロレスのチキンウィング・フェースロックという技だ。
 叶キョーコは「うぐぐっ」っと声を出したかと思うと、目玉がビヨヨヨ〜ンと飛び出し、口が腹話術の人形のようにカクっと開いた。
 飛び出した目玉にはスプリングのようなものがつながっていて、ビヨ〜ンビヨ〜ンと、交互に伸び縮みしている。
 いつの間にか隣に来ていた妻が
「アンドロイドだったんだ…よくわかったね」と言った。
「最初に見た時から、どこかおかしいと思ったんだよ」
と私が答えたところでおしまい。

 すべての夢には意味があるが、この夢には重要な教訓が含まれている。
 それは、ホンモノの叶キョーコを現実に見かける機会があったとしても、多分「どこかおかしい」と思うだろうということと、ホンモノの叶キョーコに襲いかかられるような事態がもしも発生したとしても、チキンウィング・フェースロックを掛けることに何の躊躇もしないだろうな、という二点である。

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買ったよシリーズ第三弾
メガネを買ったよ。 

2002.7.7




 誰かが「牛乳ビンの底」という言葉を発した時、ホントの「牛乳ビンの底」を指すことはほとんど無くて、たいていは度のキツいメガネのレンズのことである。
 私は強度の近視なので、私のメガネは「牛乳ビンの底」である。
ある程度親しい人は必ずそう表現する。
何度言われたかわからないくらいだ。
 ここで注意しなければならないのは、確かに度の強いレンズは「牛乳ビンの底」に酷似しているが、それだけに度の強いメガネをかけている人は、何度もその言葉を投げつけられているということだ。
言うほうは初めて口にする言葉でも、言われるほうは何度も言われて聞き飽きているということを忘れてはならない。
そういえば以前、ガイジンの人に「ストロングレンズ」と言われて、とても新鮮に感じたことがある。

 もうひとつ絶対に忘れてならないのは、本来なら人の話題になどならないであろう「牛乳ビンの底」が、たびたび話題になれるのは、我々強度な近眼の人間がいるからこそである、ということだ。
この点「牛乳ビンの底」は、我々に感謝すべきであると考える。
「牛乳ビンの底」の感謝の表明がどんなものかわからないが。
 わからないが、と言いながらもついつい考えてしまうのだが、たとえば、我々が牛乳を飲んだ時に、ビンの底に牛乳が残らないように便宜をはかる。
というのはどうだろう?
牛乳を残さず飲める。
ド近眼の人だけ。
そして健康率アップ。ド近眼の人だけ。

…あまりにくだらないので、もう考えない。

 というわけで新しいメガネを買った。
十年あまりコンタクトレンズをメインに使用してきたが、どうも調子が悪くて、メガネ使用に戻ろうとしたのだが、今まで補助的に使ってきたメガネも古かったので、新しく買うことにした。

 メガネ屋に行って、できるだけ軽くしたいのでプラスチックレンズなんてどうだろうかと女性店員に訊ねると、プラスチックレンズはガラスのレンズと比べてあまり薄くできないとの答え。

う〜む。
プラスチック→軽いけど厚いから重くなる。
ガラス→重いけど薄いから軽くなる。
う〜む。

五秒ほど考えてガラスレンズにした。
次にフレームの選択。
近眼のレンズは凹レンズなので、大きくなればなるほど、フチが厚くなる。
最近はレンズ部分が小さめのフレームが流行りなので選びやすい。
顔が大きいのでサイズに気を付けつつ、チタニウム製のフレームを選んだ。

そして検眼。
検眼したのは、懐中時計でも持っていそうな、「初老の紳士」という感じの人だったが、口元としゃべり方が笑福亭笑瓶によく似ていて親しみがもてた。
ていねいに、しかし手際よく、いい感じで検眼してくれた。人生最高の検眼だったかもしれない。

そして一週間後。
できあがったメガネを受け取り、それをそのままかけて自転車で帰宅の途についた。
なんていうか。
とっても快適。
空は快晴、視界はクリア、フレームはピッタリフィット。心地よく風を切って自転車をとばした。

 こうして手に入れたメガネがこれである。



ニュウメガネ全体像



仮面ライダー1号(技の戦士)



三枚とも、カメラと1号ライダーの距離は一定なのだ


 度の強さが実感できるだろうか?
なんかもう、光の屈折の実験に使えそうである。
左目なんか、異次元世界への入り口になりそうだ。
これでも笑瓶に「少し弱めにしておきました」と言われたのだ。

 こうして私は十年のコンタクト生活にピリオドを打ち、メガネ生活に入った。
これから年をとっていく予定なので、少しでも眼に負担が少ないほうがいいだろうという判断もあったのだ。

 それにしても、頭がデカいとか、ド近眼だとかいうのは、若い頃にはコンプレックスだが、おっさんになってしまえばただのネタである。
年をとるってなんて素敵なんだろう。
素晴らしき哉おっさん!
ビバ・ラ・おっさん!
と、先生は大きく黒板に書いた。

おしまい

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2002.6.30




 一瞬耳を疑った。
「涙が少ないですね」と言われたのだ。
コンタクトレンズの調子がどうもおかしくて、眼科で診てもらった時のことだ。
「涙の量を調べましょう」と、しみる目薬を注され、リトマス試験紙みたいのを目蓋に挟んで五分間がまん。
あげくの果てに五十がらみの女医に言われたのだ。涙が少ないというのはコンタクトレンズ使用者にとっては好ましくないことらしいのだが、「涙が少ないですね」と言われ、私は心の中で叫んだ。「そんなバカなっ!そんなはずないぞっ!」

 涙はたくさん出るのだ。むしろ人並み以上に出しているのだ。出しすぎてるくらいなのだ。

 たとえば皆さんは『ドラえもん』を知っているでしょう。
「さよならドラえもん」というエピソードはご存知だろうか?
ある日ドラえもんが急に未来の国に帰らなければならなくなって、のび太と最後の一夜を過ごす、という話。
いろいろあってドラえもんとはぐれたのび太がジャイアンとケンカになる。
いつものようにドラえもんに助けを求めようとするが、「今ドラえもんに頼ったら、ドラえもんが安心して未来の国へ帰れない」とがんばって、ついにジャイアンに「まいった」と言わせる、という話。
私は何度読んでもこの場面で泣いてしまうのだ。
こうして書いているだけで、目が潤んでくる。
映画になったのも見たが、もうなんて言うか、滂沱の涙ってのはこのことかってくらい泣いた。隣で観ていた息子にバレないようにするのが大変だった。ばれてたけど。

 みなさんはアニメ『アルプスの少女ハイジ』もご存知でしょう。
あの中で、足の悪い少女クララが、いろいろあった後、立って歩けるようになったという話。
そして、父親ゼーゼマン氏の前で立って歩けるようになった自分を初めて見せるシーン。
ハイジたちが呼ぶ声に振り返るゼーゼマン氏。
椅子に座っていたクララが立ち上がる。両脇で手をとっていたハイジとペーターがすっと手を離す。
おおっ!
驚くゼーゼマン氏。
「立った。私のクララが立った!」
このあとクララは、立っただけではなく、父親のところまで歩いて行くのだが、そのシーンは涙でぶよぶよになってしまった絵しか記憶にない。
ほらまた涙がにじんで…

こんな私である。
誰の涙が少ないというのだろう?
これは誤診ではないだろうか?
医療事故を招く重大な誤診ではないだろうか?
いや。
だが、しかし。
私のこの有り余る涙は、クララやドラえもんのためにあるのであって、コンタクトレンズのためにあるわけではないのではないか?
ならば。どうだろう
いつも考えていればいいのではないか。
立ち上がるクララを。
ジャイアンに立ち向かってゆくのび太を。
それだけじゃない。
『赤毛のアン』で、じいさんが「1ダースの男の子よりアンが良かったよ」みたいなことを言うシーン。
『ガンバの冒険』で、7匹が、島のネズミを助けるために自分たちが囮になるシーン。
サイボーグ009が、アポロンに向かって「あとは勇気だけだ!」と言い切るシーン。
アニメばっかだな。
じゃ、こんなのは?
『ウルトラマンティガ』の「拝啓ウルトラマン様」で、超能力男が「僕は人間だ!」と叫ぶシーン。
『仮面ライダークウガ』で、死んだと思っていた五代雄介がよみがえった時。

…なんか偏ってるな。ま、いいか。
とにかくそういうことだ。いつもこういうことを考えながら生きていればいいのだ。
涙なんかいくらでも出してやる。

 もしも東京都内で、デカいカバンを持って泣きながら歩いているサラリーマンを見かけたら、それは私である。
そういう事情なので暖かく見守ってほしい。

蛇足
『アルプスの少女ハイジ』で、文中で紹介した話の前に、クララが初めて立ち上がるという話があって、テレビで「なつかしアニメ感動の名場面集」のような番組があると、放送されるのはたいていこっちのシーンである。
 先日も家族でそのテの番組を見ていたら、こちらの、初めて立ち上がる方のシーンが放送された。
それは、歩けるようになろうと、みんなで一生懸命がんばっているのだが、なかなか効果があらわれず、ある日クララがキレて、「がんばってもどうせ一生歩けないのよ!」と、弱音を吐くと、今度はハイジがキレて、「もう知らない!」と、走り去ろうとするが、ハイジのかんしゃくにビビったクララが思わず立ち上がる、というシーンである。
ここも名場面なのだが、ハイジがキレて、「クララのバカ!なによいくじなし!もう知らない!」などとなじっているところで息子がボソっと
「ハイジ言い過ぎ」
とツッコミを入れたものだから、みんなで笑い出してしまった。
 物語の流れの中で見れば、ハイジがあれくらい言うのは自然なのだが、あのシーンだけ切り取って見ると、確かにかなりボロクソ言っている。
 この一件で、『ハイジ』の話では泣けなくなっちゃったかも、と、ちょっと心配な私である。



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